Cadetto.jpのロゴ画像

行きたい診療科がどうしても定まらず 「つらくても楽しく取り組める仕事」追い求める
飯塚病院総合診療科部長 井村 洋

2013/01/28
佐竹三江=日経メディカル

井村 洋先生
Hiroshi Imura
飯塚病院総合診療科部長●1988年藤田保健衛生大学大学院卒業。聖霊病院(名古屋市)、国立熱海病院(当時)などを経て93年から米国留学。98年から現職。

 父は内科の開業医でしたが、怪我でも何でもまずは診るというスタンスで、土日も診療、夜でも電話が来れば往診していました。診療時間が終わってからも、カルテを見たり調べ物をしたり。口癖のように「楽しい」「やりがいがあるいい仕事だ」「面白い」などと言っていて、実際楽しそうでしたが、私は「とても自分には真似できん」と思って見ていましたね。

 高校までは音楽の道に進みたかったのですが、母に「その道は険しいし、運も必要。一生の仕事には向かない」と言われ、それもそうかと医学部に進みました。受験勉強は苦手でしたが、新設の私立大医学部になんとか入ることができました。大学では軽音部にも入ったのですが、なぜかその後、音楽の道への思いは冷めました(笑)。

 医学部には進んだものの、自分がどの診療科に進みたいのか、どうしても決められませんでした。卒後は、先輩の薦めもあって血液腫瘍科の医局に入りましたが、その理由は血液がとても苦手な分野だったから。「今やらなかったら一生やらないだろう」と思ったのです。ですが、ここで抗癌剤の使い方を学べたことは後々役立ちました。

 入局3年目に大きな幸運が訪れました。名古屋のS病院に派遣されることになったのです。200床ほどの規模で、救急外来と入院だけという珍しい病院でした。内科も細分化されておらず、診療科を決められない私には打ってつけのところでした。

 S病院には米国帰りの指導医が多く、症例をプレゼンテーションし、皆でディスカッションしながら診断を付けていくというやり方を、初めて経験しました。ちょうどその年に出版された聖路加国際病院の「内科レジデントマニュアル」を見ながら診療をしていましたが、数カ月間で、マニュアルに載っていることは一通り経験できるという、恵まれた環境でしたね。

 指導医から「何で抗生剤使うの?」と質問され、そんなことを言われたのは初めてだったのでとても驚いたことを覚えています。当時は深く考えもせずに抗生剤を使うのが当たり前でした。

 仕事はハードでしたが、ここでの2年間は実に楽しいものでした。ケースカンファレンスや、標準的なマニュアルを軸としたOJTのおかげで、自分が段々と成長していることがはっきり実感できていたからです。

専門臓器を決めなくても行けるところはあった!
 S病院では毎年、米国から循環器科のカリスマ指導医J.constant先生を招いていました。私はconstant先生の元にショートステイをさせてもらい、米国の診療現場を見に行きました。臓器別の診療科しかなかった日本と違い、欧米には「総合医」というカテゴリーがありました。ここで初めて私は「専門臓器科を決めなくても行けるところはあるんだ!」と気付いたのです。英語はからきしダメでしたが、「留学したい!」という気持ちが高まりました。

この連載のバックナンバー

この記事を読んでいる人におすすめ