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「原発に一番近い病院」で働き始めて

2013/01/11
小鷹昌明

昨年末、視察とボランティアを目的に許可を得て警戒区域に立ち入った。筆者の背後に見えるのが福島第一原発の原子炉建屋。

 被災地の病院に異動したために長らく更新できなかったが、最近ようやく落ち着いてきたので、この地での現状を報告したい。

 大震災から1年あまりが経過した昨年の4月、私は19年間勤め上げた大学病院を辞め、福島県の沿岸部に位置する南相馬市立総合病院での勤務を始めた。言うならば、「原発に一番近い病院」である(「天国に一番近い島」とは、えらい違いだが)。

 「なぜ大学を辞職して、福島・浜通りのこの病院に来たのか」を述べているとキリがなく、くどい話しになってしまう。このブログでも、その辺には追々触れていきたいと思うが、ひとまずは大まかに「もう一度、医療の原点に戻って自分の能力を試してみたくなった」ということにしておく。

(自分の周りの)現場は大学病院と変わらなかった
 さて、福島第一原発から23kmに位置する被災地最前線病院に、身を滑り込ませたわけだが、意外なことに私の医療現場は、大学病院とほとんど変わりがなかった。

 当たり前のことだが、この地にもたくさんの脳卒中患者がいたし、パーキンソン病や脊髄小脳変性症、ALSといった神経難病患者もいた。あろうことか、フィッシャー症候群や多発性硬化症の急性期患者もいた。そして、血栓溶解療法や各種抗パーキンソン病薬、免疫グロブリン大量静注やステロイド・パルス療法を行うこともできた。

 この地域の“神経内科専門医”は私だけであるからして、「忙しいのではないか?」と問われれば、「そうだ」とも「そうでない」とも答えられる。神経内科医はもともといなかったのだから、周りだってそういう認識である。すなわち、積極的に仕事を増やそうと思わなければ、当初はそれ程忙しくはなかった(と言っても、徐々に自然と増えてきているが)。ただ当たり前のことだが、現場が変わっても、医師として責任のほとんどを背負わなければならないことに違いはなかった。

 もっとも、夜間の緊急時には検査技師や放射線技師を呼び出す必要はあった。それでも、MRIは24時間撮影可能であったし、技師の読影は私よりも正確であった。神経内科に限ってのことなのかもしれないが、正直を言えば、私の手に余るほどの医療資源はあった。つまり、ここで医療を全うできないとしたら、それは単に私個人の臨床能力の欠落を意味するものだ。

 少なくとも最初の3ヵ月間は、そう思っていた。

システム創造やパラダイム変換が復興ではない
 「ここは、“他の地”と何が違うのか?」

 この地に来た当初、私はむしろ他よりも劣化した部分があるのか探した。そして、震災から1年が経過したにもかかわらず、いまだにほとんど手の付けられていない沿岸部の壊滅的な状態や、林立する応急仮設住宅などの震災の爪痕が色濃く残る異様な光景を見るにつけ、自分が“ここに来た意味”を見出そうとした。

 震災は一瞬にして家族や財産や家屋や仕事を奪い去った。徐々に分かってきたことは、浜通りの人々にとっての海や大地というのは、単なる労働用地でも、物的資源でも、固定資産でもないということであった。自分たちとは分離することのできない恵みや悦びの場であり、いわば共同のエリアであった。

 そんな拠り所を奪われた街の人たちの気持ちとは、一体どういうものなのだろうか。自分の人生の再建に対する不安に逡巡し、思案し、葛藤している。今のこの土地における偽りのない住民の姿であった。

 「仮設は5年くらいしか住めない。土台作りもいい加減だからいつまでも住めるはずがない。東電の補償もいつまで続くか分からない。帰れるのか、それともここに新しい街を作るのか。それにしても、一体何が新しい生活なのだろうか?」という自問が、ここでは繰り返される。あるいは、「飲んで食って寝るだけだから、楽と言えば楽だ」「ここに居るしかないのだから諦めているというか、他に行くところもないから家に閉じこもっている」「パチンコと散歩くらいしかやることないな」と打ち明けてくれる。そんな住民たちに対して、何を届けていったらいいのか分からなかった。

 福祉や介護の中心的担い手であった若手、特に女性層の抜けた街の実態を思い知らされた。高齢化が一気に進んだことと、介護・福祉職員の圧倒的不足。その帰結として、ケア施設の絶対的欠乏があった。いかなる患者であろうと、入院治療が終了した人への選択肢は自宅に返す以外にほとんどない。リハビリのできる転院先を探そうとするならば、県外しかないなどというのは当たり前であった。

 現状を目の当たりして、私は考えを是正せざるを得なかった。「何かを始めたい」と意気込んでは来たものの、“医療復興”というのは、システムの創造、パラダイムの変換といった類のものではなかった。求められているのはむしろ、丁寧な修繕、再度の緻密化、改めての体系化、有機的な規模の拡大、そして人を集めてお互いを繋ぐ。そういうことが医療の復興であった。

他所者にできることは何なのか
 人が人に冷たくなれるのは、人の出入りが多い土地にいるときである。流動的な世界では、じっくり人間関係を組み立てることができない。「若い無知な人をじっくり育てる」とか、「老いた非力な人をゆっくり見守る」とか、あるいは「長い付き合いだから傾いた商店を応援しよう」とか、「地元の特産品や伝統工芸を守ろう」とかいう気にはならないだろう。

 他人のために何かをするということは、想像していたほど簡単ではなかった。「人間は、自分で体験したことでないと分からない」と、つぶやいていた患者の言葉が引っ掛かった。

著者プロフィール

小鷹昌明(南相馬市立総合病院神経内科)●おだかまさあき氏。1993年卒後、某大学神経内科に所属し、病棟医長、医局長、准教授を歴任。一念発起して2012年4月から現職。「今、医療者は何を考え、どうすべきか」をテーマに、現場から情報発信を続ける。

連載の紹介

小鷹昌明の「医師人生・四“反省”期」
医学部入学から四半世紀になろうとしている小鷹氏。自分の医師人生を四“反省”期として振り返ります。医療・医学、社会問題・社会現象、人間関係・生き方、自らのこだわりといった4つのテーマについて、様々な角度から語ります。

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