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今さらながらの死生観(後編)
「死」を複雑にする医療

2011/11/10
小鷹昌明

 死を恨んだり憎んだりしても始まらない。死の存在は、人類が誕生して以来何も変わっていない。人が生まれて、生きて、死ぬことに、これまでも、そしてこれからも一点の変化もない。

 台風やハリケーンの増加、豪雨や干ばつ、大気や土壌や海洋汚染、森林伐採や絶滅種の増加など、激変しているのは人間が活動する地表の環境だけである。日照時間や月の満ち欠け、潮の満ち引きなど天空からの影響は何も変わっていない。

 死も変化していない。変わったのは、「医療技術」と「医師と患者との関係」と「告知のあり方」という人工的なものだけである。

 人間の条件は、「生きて、死ぬ」ことであり、最後は「老いて、病み、動けなくなる」ことである。さらに加えれば、その過程で「愛し、愛される」ことである。食わねばならぬし、食わせねばならぬし、やがて食わせてもらわなければならない。

 すべての人が、かつては幼児であり、成人し、やがて老人になる。老人になれば、かなり高い確率で病人か障害者になる。幼児を養い、老人を敬い、病人や障害者を救済するということは、人間を経時的に配慮するという行為に他ならない。

 そのようなことは皆、分かっている。しかし、当たり前のことを当たり前として対処できなくなっているのが現代であり、その対処の仕方を複雑にしているのが医療である。

 金のない人は高額な薬を求められず、治療継続を断念する。ましてや、臓器移植など夢物語である。家族の負担を考え、人工呼吸器による延命を諦める。老老介護で共倒れしてしまう。それでなくても、1人の病人のために破綻する家族は後を絶たない。

 「不運にして難病を患った人に、“尊厳死”などということはあり得ない」。筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の遺族の言葉が思い出される。「“尊厳”とは人から与えてもらうものだから、しっかりとしたケアが可能なら、障害や病気がどれほど深刻になろうが、尊厳が失われることはない。“尊厳を保てなくなるから死ぬ”ということは、ケアを行う周りが“尊厳”を与えられなくなったということ。弱者を大切にし、十分なケアを提供しようという立場の我々が肯定することはできない」と語っていた。

 脳死判定基準や過労死基準、安楽死や尊厳死など、死の“定義”に当てはめるために、文書で意思を確認する時代になった。そういう手続きを経なければ普通には死ねなくなってしまった。

 私たちの社会は後戻りできない、何かの一線を越えたようである。

癌は自分自身から生じる
 「長寿を求めることの何が悪い? 生命をまっとうし、愉しいことや嬉しいことを長く維持しようとする行動のどこが問題なのだ」「若くして病気で亡くなった人や不慮の事故で命を落とした人のことを考えろ」。もっともな意見である。

 癌患者に「死を恐れるな」とは、私は決して言えないし、最後まで抗癌剤を用いて病気と闘っている患者を、もちろん否定はしない。

著者プロフィール

小鷹昌明(南相馬市立総合病院神経内科)●おだかまさあき氏。1993年卒後、某大学神経内科に所属し、病棟医長、医局長、准教授を歴任。一念発起して2012年4月から現職。「今、医療者は何を考え、どうすべきか」をテーマに、現場から情報発信を続ける。

連載の紹介

小鷹昌明の「医師人生・四“反省”期」
医学部入学から四半世紀になろうとしている小鷹氏。自分の医師人生を四“反省”期として振り返ります。医療・医学、社会問題・社会現象、人間関係・生き方、自らのこだわりといった4つのテーマについて、様々な角度から語ります。

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