
有名なラッシュモア山国立記念公園(サウスダコタ州)を家族で訪れました。背後の岩壁には、歴史に名を残す4人の大統領の顔が彫られています。
こんにちは。サウスダコタ大学家庭医療科アシスタント・プロフェッサーの萩原裕也です。日本の医学部を卒業してすぐ、アメリカで3年間の家庭医療研修を始め、修了後の2007年からサウスダコタ州のViborgという田舎町で家庭医をしています。
この連載は、妻の萩原万里子(同大内科レジデント)にも参加してもらい、交代で執筆しながらお送りしていきたいと思っています。僕たち夫婦は、2人の娘の子育てに泣き笑いしながらも、それぞれアメリカで臨床医として働き、充実した毎日を過ごしています。
今回は2人の簡単な自己紹介を含め、僕がアメリカでレジデントとしての生活を開始するまでの道のりを紹介したいと思います。
いつかはまたアメリカで…
僕は5歳から12歳までをシカゴ郊外で過ごし、妻も5歳から10歳までをサンノゼで過ごしました。お互い、いわゆる帰国子女というわけです。僕は中学校に入学する際に帰国し、そのまま医学部を卒業するまで日本の教育を受けました。受験勉強以外で特に英語に取り組んだわけではないのですが、幸いにも日常会話程度をこなせる英語力は維持することができました。「いつかはまたアメリカで生活してみたい」という潜在的な願望があったためかもしれません。
アメリカで過ごした幼少の頃の記憶が美化されているのは否めませんが、学校から帰って毎日のように広い裏庭や公園で暗くなるまで遊び、本当に子どもらしい、楽しくのびのびとした毎日を過ごしていたように思います。住んでいた家も大きくて、周囲には豊かな自然が広がっていました。漠然とですが、「自分の子どもにも同じような経験をさせてあげたい」という思いが常に胸にあったように思います。
そのようなわけで、医学部に入ったときから、アメリカの医療に自然と興味を持っていたことはご理解いただけるでしょう。ある講義で「アメリカの医療は日本の20年先を行っている」とおっしゃった先生の話にも心を揺さぶられました。本当でしょうか? 今となっては、日本の医療そのものがそこまで後塵を拝していることはないにしても、医師の教育システムの面でははるかに先を越されていることは確かであると肌で感じています。
医学部1年生となった僕は、いわゆる日本の医学生らしく(?)テニス部に入部し、4年生で東医体を終えて引退するまでは、テニスが生活の中心となっていました。ターニングポイントとなったのは、5年生の夏。当時の神経内科の先生のつてで、夏休みの期間にアイオワ大学神経内科で1カ月の実習をさせてもらったのですが、そこの医学生と自分とのレベル差に愕然とし、落ち込んで帰ってくることになったのです。