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ババシャツを脱がさないで

2019/07/12
テクノ アサヤマ(緩和ケア医)

 実はホスピスの仕事を辞めてからかなり時間が経っている。ホスピスを辞めてからは、何もしないで気楽に過ごしたり、緩和ケアチームを手伝ったりしていたが、この春から都会を離れ、地方で働き始めた。以前も勤務したことがある土地で、いわゆる“僻地医療”に携わっている。この地域に在宅ホスピスを導入するためである。

 勤務地は何しろ医師不足のド田舎なので、在宅ホスピスだけをやっているわけにはいかない。緩和ケアにどっぷり浸かった心と体にムチを打って、日々の慢性期外来、救急外来、ちょっとした外科処置、予防接種などの日常診療を行っている。「肺炎だな。この肺炎は治療した方がいい肺炎なんだろうか?」「好きなものを食べていいですよ。と言いたいところだけど、血糖値のためには我慢させなきゃいけないんだよな?」と、おっかなびっくり仕事をしていたが、三カ月弱経ってようやく感覚を取り戻してきた。慢性期外来の診療や、救急外来の治療の感覚と同時に、カルチャーギャップに悩んだ感覚も一緒に。


 私は地方中枢都市で育った。マンションの六階にある実家からは歩いて五分以内にコンビニがあり、日常生活では電車とバスと地下鉄を使って移動し、何不自由なく暮らしていた。地方の医大に進学して、「車がないと暮らせない」という状況がどんなものなのか初めて知り、学生の六年間で「夕食の買い物をしに車でスーパーに行く」という生活にようやく慣れた。しかし、やはり医師不足になるような僻地は、少なくとも医大がある町とはレベルが違う。生まれてから八十歳を超える今まで、田舎町を出ずに暮らしてきた人と接するのは、カルチャーショックの連続である。

 例えばある日、病院の階段の踊り場で息を切らしている老人がいた。手すりにしがみつきながら、歩幅十五センチくらいでよたよたと歩いている。よく踊り場まで階段を上がってこれたな、と思いつつ見かねて、大丈夫ですか?エレベーターもあるから使ってくださいね、と声を掛けると、

「えれべぇたぁ…??使い方わかんね」

 衝撃で固まった。これは令和になってからの話である。そういえば一階のエレベーターホールには「↑のボタンを押して下さい」という貼り紙があったが、それはエレベーターの使い方を知らない人がいるからなのだ。それまでずっとスルーしていた貼り紙の意味に初めて気づき、日本とは広いものだなとしみじみ思った。考えてみれば確かに高層の建物もなく、地下鉄や高架の駅もない当地では、エレベーターに接することなどないのだろう。私がいま働いているのはこのような地である。


 私はここで足掛け三年診療しているが、ここに住む高齢女性が半袖を着ているのを見たことがない。最低でも袖は五分丈までだ。寒冷な地域とはいえ夏はそれなりに暑い日もあるというのに、彼女達はとにかく寒いことを恐れる。診療をしていると一日に最低十回は聞ける言葉はこれだ。

「寒いと思っていっぱい着て来てねぇ」

 胸部聴診のため胸を出してもらう時、腹部診察のため横になって腹を出してもらう時。現金書留の封筒のように重ね着しているババシャツとモモヒキをかきわけてまくり上げながら彼女達は言う。今日の最高気温は三十度を超える真夏日であるというのに。

 彼女たちが腹を出すのを待っている間に私がいつも思い出すのは、エチオピアのバスの話だ。私はエチオピアに行ったことはないが、旅行記で読んだ忘れられないエピソードがある。

 エチオピアのバスにはエアコンが無いらしい。照りつける太陽、灼熱の夏、乗客をぎっしり乗せて走る長距離バス車内の気温はグングン上がっていく。なぜ、バスの窓は閉め切られたままなんだ?むせ返る空気に耐え切れず窓を開けると、後ろから黒い手がニュッと出てきてピシャリと窓が閉められる。もう一度開けてみる。他の手が伸びてきて窓は閉められる。懲りずに窓を開ける。間髪を入れず、また閉める。なんで閉めるの!?こんなに暑いのに!と振り返ると、エチオピア人が真顔で言う。

「バスの窓を開けると悪霊が入ってくる」


 この地域の老女達にとって、寒さとは悪霊なのだ。実在するとかしないとかではない。悪霊は、恐ろしい。寒さという悪霊に襲われたら、腹が冷えて下痢をしたり、喉が冷えて風邪をひいてしまう。悪霊への備えは常に万全にしなければならない!

 以前、この地に赴任した時には、真夏でもやたらと分厚い下着を着込む患者のババシャツを脱がせようと頑張った。しかし、診察室で家族含め説得の上ババシャツを脱がせても、病院から出る時にはもう着ているのだ。「暑いから脱ぎましょう」「いや寒いのが心配だから」「今日は寒くないですよ、真夏日なんですから」「でも寒くなったら心配だから…」という問答を何回も繰り返した。だが寒さという悪霊の恐怖は彼女たちに深く根付いており、いくら天気予報を見せても、高温注意情報について説明しても、そんなものでは覆せない。

 僻地医療三年目の夏にようやく気づいた。寒さへの過剰な恐れは、文化の違いなのだ。

 悪霊を恐れてバスの窓を閉め切るエチオピア人に、悪霊などいないから窓を開けよう、と説得するだろうか?いや、エチオピアではそうなんだ、と割り切るだろう。暑ければ薄着になってクーラーをかけるという私が慣れ親しんできた文化は、寒さを恐れて着込む文化と比べて決して偉いわけではない。

著者プロフィール

緩和ケア医。「生と死を見つめる」をライフワークに、僻地に緩和ケアを導入するためIターン。音楽と読書が欠かせない生活。愛車はワーゲン。ペンネームの由来は、Daft Punkの名曲「TECHNOLOGIC」。Twitterは@technoasym

連載の紹介

テクノ アサヤマの「今日がいちばんいい日」
緩和ケア医・テクノアサヤマが僻地にやってきた!僻地医療、それは日本の中の異文化交流。違う人間である「わたし」と「あなた」はどうやって生きていけばいい?悩めるあなたとわたしのストーリー。

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