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それでも僕は「乳腺外科医は冤罪」と確信する

2020/07/21
谷口 恭(太融寺町谷口医院)

 件の乳腺外科医の控訴審判決にはただただ驚くばかりだ。あまりにも非科学的な検察の主張には呆れて物も言えないが、公正な司法を取り戻し、冤罪を晴らすために、なぜこのような判決が出たのか、そして我々がすべきことを考えてみたい。

 まず、外科医であろうがなかろうが、少なくとも医療者であればこのような“事件”は起こりようがないことが確信できるはずだ。術後、麻酔から覚醒したばかりの患者の経過を診るために他の患者もいる大部屋に行き、手術していない方の乳首を舐めて自慰行為に励む……。こんなことできるはずがない。

 もちろん、医師には高い倫理観があるはずで……、などと言っているわけではない。(後述するように)常識ではあり得ないようなわいせつ事件を起こしている医師がいることは周知の事実である。盗撮、痴漢、強姦などの犯人が医師であったとしても僕は驚かない。だが、大部屋で術後の患者の乳首を舐めて自慰行為、は世界がひっくり返ってもあり得ない。

 ではなぜ検察や裁判官はこのような“事件”が起こったと考えたのか。我々医療者が「絶対にあり得ない」と考える以上に「あり得る」と思わせる何らかの根拠があるからだ。通常、その根拠となるのは「科学的」なものでなければならないが、薬師寺泰匡先生が自身のコラム「科学の敗北~乳腺外科医の裁判~」で述べられているように、検察が提出した証拠は再現ができないエビデンスレベルの極めて乏しいものである。さらに検察側の証人として出廷した精神科医はせん妄が専門でないことを自ら断って証言している。弁護側の証人の精神科医はせん妄を専門としているのに、だ。

 エビデンスに乏しい物的証拠を信用し、専門家の証言を聞かず、専門家でない証人の意見を取り入れた裁判は司法として破綻しているのではないか。にもかかわらず裁判官が有罪判決を出したということは、こういった証拠や証言ではなく「絶対に罪を犯した」と裁判官を確証させる“何か”があるに違いない。その“何か”についての私見を述べたい。

 一つは、裁判官には「わいせつ行為が医療現場で生じ得るシチュエーションの“違い”が分からない」ということだ。「分からない」という表現は上から目線だが、裁判官を蔑んでいるのではなく、この“違い”は医療者以外には恐らく分からないのではないだろうか。これを説明するために1つの事件を取り上げたい。

 報道によると、2020年1月、警視庁捜査1課は東京都足立区の産婦人科クリニックの50歳代の院長を、同院を受診した30歳代の妊婦を強制性交した疑いで逮捕した。2019年11月、診察室の奥にある個室のベッドで、女性に「先生のことを好きと言ってごらん」と言って体を触るなどの性的暴行をはたらいたとのことだ。

 この事件を聞いたとき、僕はあり得るなと直感した。一方、乳腺外科医の事件はあり得ないことを確信した。自分が執刀した創部を確認するとき、我々はとても緊張する。特に術後最初に診るときには、手術に自信があったとしても不安な気持ちになるものだ。僕自身、手術をしなくなるまでこの気持ちを持ち続けていた。この事件の外科医の先生は僕よりもはるかに経験豊富だが、やはり創部を確認するときにはそれなりの緊張感を持たれていたのではないだろうか。自分が執刀した症例を診る際「手術していない左乳房の乳首をなめ自慰行為に及ぶ」ことなど絶対にできない。この”感覚”は外科医でなくとも医師ならば誰でも理解できると思う。

 しかし、恐らくこの“違い”が裁判官も含めて医療者以外の人たちには感覚として理解できないのだ。だから、検察官や裁判官は「足立区の医者は犯行を認めているではないか。あんたら医者は世間では考えられないようなわいせつ事件を起こす人種なんだよ。被告の乳腺外科医もおんなじだろ」と考えたのだ。私見ではあるが、乳腺外科医の冤罪を晴らすには、これら2つの事件は全く異なる種類のものであることを世間に理解してもらう必要がある。

著者プロフィール

たにぐち やすし氏●1991年関西学院大学社会学部卒。商社勤務を経て、2002年大阪市立大学医学部卒。研修医終了後、タイのエイズ施設でのボランティアを経て大阪市立大学医学部総合診療センター所属となり、現在も同大非常勤講師。2007年に大阪・梅田に開業。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。労働衛生コンサルタント。

連載の紹介

谷口恭の「梅田のGPがどうしても伝えたいこと」
患者さんに最も近い立場で医療を行いたい……。それを実現するため医師6年目に資金300万円で開業した谷口氏。「どのような人でも、どのような症状でも受け入れる」をポリシーに過去11年で3万人以上の初診患者を診察した経験を基に、開業医のやりがいや苦労、開業医に求められるミッションを若手医師向けに語ります。

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