
R太郎は、運転中の観光バスのフロントガラスから桜並木を眺めながら、MRをしていた時代のことを懐かしく思い出していた。
MRのころは毎春、病院の駐車場に停めた営業車の中から、桜の木を眺めていたものである。桜の花びらが舞い散る中を、寝間着姿でのんびり散歩したり、にこやかに歓談している老夫婦の姿が、R太郎の目に焼き付いていた。
R太郎は、大学卒業後に製薬会社に入社して以来、MRを30年近く続けていた。一時はラインの課長として部下を従え、がんばっていた時期もあったが、最後の10年間は転職を繰り返すことになった。結果的にMR時代の最後を迎えることになった会社では、「専門課長」の肩書をもらっていたが、肩書は名ばかりで部下もおらず、決まった病院を巡回するだけで毎日がマンネリ化していた。そのころには、家庭でも「お父さん、最近、元気がないわね」と妻や子どもに言われるようになっていた。
そんなある日、R太郎が勤めていた製薬会社が突然、大リストラを発表した。早期退職優遇制度の対象者にエントリーすれば、最高60カ月分の退職金が支給されるという。R太郎は勤続年数が短いので60カ月分には満たないが、それでも通常では考えられない退職金がオンされると聞き、迷わず応募を決めた。家族も、当初は反対したが、元気のないR太郎を目にしていたこともあってか、結局は賛成してくれた。
早期退職優遇制度へのエントリーは、すべて電話受付で行い、先着順であることがアナウンスされた。エントリーできるのは、全MR数の2割に相当する人数だけ。相当数の希望者がいるのではないかと、うわさされていた。R太郎も「出遅れるまじ」と、エントリー当日、受付開始時刻の朝9時の30分前には電話の前にスタンバイした。
エントリー開始時刻。テレビの時報と同時に、R太郎は電話のダイヤルをプッシュした。しかし、電話は既に話し中になっていた。リダイアルを繰り返したが、受話器から聞こえるのは、「ツー、ツー」という話中のサイン音のみ。R太郎は、あきらめずに何十回も電話をかけた。30分を過ぎたころ、短いコール音のあとに電話がつながった。しかし流れてきたのは、テープから流れる「エントリーは終了しました」という機械的で冷たい女性の声だった。R太郎は、エントリーに失敗したのである。