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日経メディカル2012年10月号「特集 医師人生の岐路と選択」転載 Vol.5
病院経営に嫌気、趣味の造園に没頭
Part1 医師6人の転機と決断【引退 その1】

北芝電機(福島市)産業医
作田善雄氏(73歳)
1938年福島県生まれ。64年福島県立医大卒。同大第二外科に入局し、83年長井市立総合病院脳神経外科部長。2000年公立置賜長井病院長。04年に定年退職後、国土建設学院造園緑地工学科に入学。06年から今村病院に勤務し、09年から現職。

 一般外科医として1964年に医師のキャリアをスタートした作田善雄氏。約10年働いた後、脳神経外科に興味を持つ。当時、日本人の死因第1位は脳卒中で、脳神経外科が脚光を浴び、専門医も定着しつつあった。そこで作田氏は、美原記念病院(群馬県伊勢崎市)や東北大に国内留学し、脳神経外科専門医を取得。45歳で山形県の長井市立総合病院の脳神経外科部長になった。

 外来、回診、手術に追われ、夜間や休日も緊急手術の呼び出しがいつあるか分からない毎日。年間の手術件数は150件を超えた。それでも、「意識がない状態で搬送されてきた患者を自分の手で治せることに喜びを感じていた」と当時を振り返る。60歳近くになっても視力や足腰の衰えを感じることはなかったという。

 しかし2000年、61歳の時に転機が訪れる。経営悪化や医師不足、医療ニーズの変化などを背景に、地域の公立病院や診療所が再編され、作田氏が勤務していた長井市立総合病院は規模を縮小してサテライト病院になった。名称は公立置賜長井病院となり、病床は463床(一般382床、精神81床)から110床(一般50床、精神60床)に縮小された。同氏は院長に就任したが、脳神経外科手術の体制が整わず、手術から身を引くことになった。

 「新病院は、当初の計画通りに医師が集まらず苦労した。そんな状況では患者は増えず、収益も上がらない。しかし、赤字になれば市議会で叱責を受ける。次第に管理業務にストレスを感じるようになった」と作田氏。いつしか「65歳で定年退職したら、医師をやめよう」と思うようになっていた。

 そして定年退職を迎えた04年、趣味だった造園の専門学校である国土建設学院(東京都小平市)に入学。造園技術を2年間学び、造園技能士の国家資格も取得した。この期間は完全に医業から退いた。

 院長にまでなった医師が、医業から完全に離れることに不安や抵抗感はなかったのだろうか。作田氏は「造園はずっとやりたいと思っていたことなので、周囲の目は全く気にならなかった」と話す。

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