日経メディカルのロゴ画像

日本医師会会長選挙を振り返る
上昌広(東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門准教授)

2010/05/03

かみ まさひろ氏○1993年東大医学部卒業。99年東大大学院医学系研究科修了。虎の門病院、国立がんセンター中央病院を経て2005年10月より現職。

※今回の記事は村上龍氏が主宰する Japan Mail Media(JMM)で2010年4月7日に配信されたメールマガジン(『絶望の中の希望~現場からの医療改革レポート』第54回 日本医師会会長選挙を振り返る)に加筆修正したものを転載させていただきました。

日本医師会長
 4月1日、日本医師会会長選挙が行われ、茨城県医師会長の原中勝征氏が、第18代会長に選出されました。森洋一氏(京都府医師会長)、唐澤祥人氏(前日医会長)を僅差で破っての当選でした。

 多くのメディアは、このことをトップで扱いました。確かに、日医は自公政権を支えた代表的な業界団体で、政権交代後の対応に多くの国民が関心を持っていました。また、自公政権を支持してきた唐澤氏、政治とは距離を置くと言いながらも、前原国土交通大臣などの京都出身の有力議員と親しい森氏、さらに昨年の総選挙での民主党大勝利に貢献した原中氏の争いは、与野党の代理戦争の様相を呈していました。マスメディアが関心を持つのも当然です。今回は、日医会長選について解説したいと思います。

原中会長の経歴
 まず、原中新会長の経歴から説明しましょう。今回の医師会長選挙は、彼のキャラクター抜きでは語れません。

 原中氏は1966年に日大医学部を卒業した内科医です。卒業後は東大医科研の内科に勤務し、臨床・研究に従事します。この間、TNF-αの研究で世界的な業績を挙げ、米国科学アカデミー紀要(PNAS)などの一流誌に多くの論文を発表しました。このような活動が評価され、1990年には東大医科研内科助教授に昇格します。当時、東大卒以外が助教授に就任するのは極めて異例でした。しかしながら、助教授就任後、直腸癌を患い、1991年に茨城県の医療法人杏仁会大圃病院理事長・院長に転職します。詳細は分かりませんが、東大内部での学閥争いも関係したという噂です。

 その後、原中氏は茨城県の地域医療に専念します。1998年に茨城県医師会理事、2004年には茨城県医師会会長に就任します。茨城県と言えば自民党王国。古くは梶山静六氏から丹羽雄哉氏、額賀福志郎氏などの大物議員を輩出しています。そして、長年にわたり自民党茨城県幹事長を務めた山口武平氏がいました。

 余談ですが、山口氏の先輩には小幡(菱沼)五朗氏がいます。血盟団事件で団琢磨を銃殺し、服役。その後、右翼活動を離れ、茨城県議会長になった人物です。1990年に亡くなるまで茨城県政の重鎮として活躍しました。原中氏は、このような武闘派に囲まれた環境で実力をつけていきます。

 彼に転機が訪れたのは、2007年の参議院選挙です。当時、日医の理事であった原中氏は、日医推薦の武見敬三候補ではなく、郵政選挙で落選していた国民新党の自見庄三郎候補を応援し、当選させます。一方、武見候補は落選し、日医の凋落ぶりを印象づけました。この頃から、原中氏と民主党の付きあいが始まったと言われています。

 さらに、2008年4月、後期高齢者医療制度が施行されると、茨城県医師会は「高齢者切り捨て」と反対の論陣を張ります。地元で署名活動を展開し、原中氏は民主党の参考人として国会に登場しました。日医幹部が野党の参考人になるなど、前代未聞です。また、後期高齢者医療制度を推進したのは、地元選出の厚労族の大物・丹羽雄哉氏ですから、自民党王国に正面から喧嘩を売ったことになります。

この記事を読んでいる人におすすめ