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タブーから目をそらさずに議論が必要
各国の非言語情報から見る呼吸器外しの理念
村重直子(厚生労働省改革推進室)

2009/01/14

 昨年10月7日、「呼吸器外しの意思尊重を 倫理委が異例の提言」というニュースが流れた(1)。

 内容は、亀田総合病院の倫理委員会が、全身の筋肉が動かなくなる難病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の男性患者が提出した「病状が進行して意思疎通ができなくなった時は人工呼吸器を外してほしい」という要望書について、意思を尊重するよう病院長に提言していた、倫理委員会が判断を示したのは異例、というものであり、NHKでは何と患者さんの氏名も報道されている(2)。

 氏名を公表してまで世の中に議論を呼びかけた、この患者さんの勇気ある行動と、同病院の亀田信介院長の「人工呼吸器を外せば逮捕されるおそれがあり容認できない。しかし、患者みずからが治療を選ぶ権利を奪うこともできない。社会全体で議論してほしい」というコメントに、医療現場の苦悩が凝縮されている。

 亀田院長は後のインタビューで、呼吸器を外すに当たって踏むべき手続き、プロセスを定める必要があると提案している(3)。

 このような日本の状況とは極めて対照的な米国の状況が、昨年12月11日の医学誌に掲載され(4)、日本における呼吸器外しの議論が、医療の高度化から取り残されていること、従ってそのギャップに苦しむ人々が増えているであろうこと、米国の議論は日本とは比べ物にならないほど先の段階へと進んでいることを、改めて思い知らされた。

●米国医療の非言語情報まで洞察を

 米国で「当然」「常識」と思われていることや、その「常識」に基づく米国民のニーズは、あえて言語化されないため、情報として日本に入ってくることは滅多にない。一方、米国民のニーズがあるのに存在しない、あるいは失われつつあるものこそ、言語化され、声高に叫ばれるため、情報として日本に入ってくることが多い。

 その典型例が、“continuity of care(同じ担当医が同じ患者を継続して診療すること)” “primary care(プライマリ・ケア)” “nonprofitorganization(病院の運営主体として)”といったフレーズだ。

 従って、日本において入手可能な外国の医療に関する情報には、かなりのバイアスがかかっており、その背景にある「常識」という非言語情報まで洞察しなければ、解釈を誤るであろうことは想像に難くない。呼吸器外しについても、そのような背景まで理解する必要があるだろう。

●米国で呼吸器外しは日常

 私がニューヨークで臨床医として勤務していた1999-2002年当時、“medicallyfutile” つまり、治療しても治る見込みはないと判断された患者の呼吸器を外すことは、既に“standard of care(標準的医療)”として日常的に行われていた。

“medically futile”という判断は、医学的判断、つまり担当医による診断であり、その診断に従って呼吸器を外す行為は、担当医による医療行為の一環である。当然、担当医以外の第三者医師の判断を仰ぐ必要も、院内の倫理委員会に諮る(担当医以外の複数の第三者意見を聞く)必要もない。まして、刑事司法や行政が介入するなど考えられない。

「このような尊厳のない延命を本人は望まないだろう」と考えない家族はなく、呼吸器を外すことに同意しない家族に遭遇したことはない。“medically futile”という診断に従って呼吸器を外すことが標準的医療と認識されているということは、仮に、治る見込みがないと診断されたにもかかわらず家族が呼吸器を外さないという選択をしようとした場合、合理性がないとみなされ、院内の倫理委員会に諮って第三者の意見を聞く必要性が出てくることを意味する。

●日本で呼吸器外しは殺人罪

 一方、日本では、医学的判断や本人・家族との話し合いといったプロセスとは無関係に、呼吸器を外すという行為そのものに刑事司法が介入し、殺人罪に問われているケースが現に存在する。1998年に、川崎協同病院で患者の呼吸器を外した医師が、2002年12月4日、神奈川県警に逮捕され(5)、2007年2月28日、東京高等裁判所で殺人罪を適用した判決が出されている(6~8)。

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