日経メディカルのロゴ画像

国立病院に生き続ける陸海軍の亡霊
上昌広(東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門特任准教授)

2008/12/25

かみ まさひろ氏○1993年東大医学部卒業。99年東大大学院医学系研究科修了。虎の門病院、国立がんセンター中央病院を経て2005年10月より現職。

※今回の記事は2008年11月5日に村上龍氏が主宰する Japan Mail Media JMMで配信した文面を加筆修正しました。

 東京都を舞台とした妊婦受け入れ不能事件が連日マスメディアで報道されています。この事件をきっかけに大都会東京の問題点が暴露され、皆さんはわが国の社会保障制度の脆弱性を認識されたことでしょう。さらに、先週は、二階経産大臣による「医師のモラル」発言もあり、事態は予期せぬ展開を示しそうです。

 前回(2008.11.5 JMM「絶望の中の希望~現場からの医療改革レポート 『第17回 メディアが報道しない東京都立墨東病院事件の背景 第一回』」)、東京都内の大病院の配置が山手線の内側に偏っていること、および都内の大病院の半数を占める大学病院は明治から大正にかけて創立されていること、都立病院の多くが東京市の貧困・衛生対策を目的に明治期に創立されたことを紹介しました。

 このような病院の創設の経緯は、マスメディアであまり報道されることはありませんが、現在の医療問題を考える上では極めて重要です。なぜなら、各病院は歴史を背負っており、その制約を受けているからです。今回は、国立病院の歴史を議論しましょう。

東京は軍都だった

 現在、東京23区内には独立行政法人化された国立病院機構を除き、国立がんセンター国立国際医療センター国立成育医療センターの3つの国立の医療機関があります。いずれの病院もわが国の治療・研究の最高峰とされています。

 ところで、この3つの病院を受診やお見舞いで訪れた方はお感じになったかもしれませんが、どの病院も敷地が広く、便利なところ、あるいは高級住宅街の真ん中に立地しています。これは、明治期の東京都市圏の端に位置する都立病院とは対照的です。

 皆さん、築地、戸山、大蔵という地名をお聞きになると何を思い出されるでしょうか。現在、築地といえば築地市場、寿司屋、戸山と言えば集合住宅・文教施設、大蔵といえば高級住宅街が思いつく方が多いでしょう。ところが、戦前までの、この3つの地域のイメージは現在とは全く異なります。

 驚く方も多いかもしれませんが、いずれも「軍隊」に密接に関係した地域なのです。築地には海軍施設、戸山には、戸山ヶ原と呼ばれ陸軍の射撃場や陸軍の軍人養成機関である陸軍戸山学校など軍施設が並んでいました。

 さらに、戦前の世田谷地区は軍施設のメッカであり、そもそも世田谷の郊外化、都市化は、旧軍施設の進出が大きな役割を果たしたと考えられているのです。明治政府は、明治初期に四谷・赤坂・青山などに兵営を築きましたが、1890年頃にはスペースの限界から郊外に進出せざるを得なくなりました。

 この結果、農地や雑木林が広く展開し、交通の便がよく、土地も廉価な世田谷が候補地として注目されたのです。建設省関東地方建設局京浜工事事務所が編纂している『多摩川誌』によれば、当時、世田谷の地元では軍施設の進出に対し,土地の有償譲渡その他のメリットのため招致運動まで起こったようです。

 陸海軍が地域の開発を促進し、現在の国立病院の礎を築いたという事実は、21世紀を生きる私たちは全く認識することがありません。ところが、現在の国立病院、つまり厚生労働省が提供する医療の根源には、陸軍・海軍の伝統が深く息づいています。

海軍は築地で誕生した

 ここでは、国立がんセンターをモデルに軍隊と医療の関係と考えてみましょう。

 先ほども述べましたが、戦前の築地は海軍の町でした。ことの発端は幕末まで遡ります。1853年、浦賀沖に米国のペリー提督が率いる艦隊が来航します。その後、外国船の来港が相次ぎ、世情は騒然となっていくわけですが、列強の近代的軍備に刺激された江戸幕府は、1854年、現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操練場を作ります。

 この施設が1856年に講武所という、旗本・御家人、およびその子弟を対象とした武芸訓練機関に発展します。その後、1861年に武芸の訓練所は水道橋の現日本大学法学部図書館の場所に移転し、築地には軍艦操練場が残り、幕府の海軍の中核的施設となります。この軍艦操練場の教授が、有名な勝海舟です。

この記事を読んでいる人におすすめ