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TIME誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた菅野氏らが講演
津波を想定して訓練していても防げなかった医療被害

 これまで経験したことのない地震、津波の恐怖を経験したとき、医師はどのような行動を取るのか―。

 第97回日本消化器病学会総会(5月13~15日、開催地:東京都新宿区)で14日、「東日本大震災 現地からの報告と復興への課題」と題した緊急特別講演が開かれ、宮城県南三陸町の公立志津川病院勤務医(当時)の菅野武氏、岩手県立釜石病院長の遠藤秀彦氏らが登壇し、震災時の病院の様子や経過について語った。菅野氏は4月21日、米TIME誌で、2011年「世界で最も影響力のある100人」に選ばれている。

あっという間に病院が4階まで浸水
 3月11日の地震発生当時、菅野氏は病院の2階にある医局にいた。「大きな揺れが来て医局の本棚が倒れたが、直後に院内を巡回したときは入院中の患者に大きな被害はなかった」(菅野氏)という。だが揺れから約10分後に津波警報発令の防災無線が入った。

 最上階である5階への患者搬送を開始したが、「警報から20~30分の間に津波が来て、数分で病院4階の天井まで水が上がってきた。3・4階に入院中の患者やスタッフが轟音、悲鳴とともに、あっという間に流されていった。助けたい気持ちはあったが、一度病院を出たら自分が戻ってこられると思えなかった。そうした中で、これ以上は誰も死んでほしくないという気持ちが強くなった」と菅野氏は当時を振り返った。

 津波が病院を襲ってから30分ほどで少し波が引き、4階は膝丈まで浸水していたものの移動できるようになったので、スタッフとともに4階を巡回。入院患者10人を救助した。「息のあった患者は、ベッドマットごと水に浮いたのか、比較的すぐに波が引いて助かったようだ」と菅野氏は説明する。

 震災当日の晩は電気、水、食糧などのライフラインに加えて酸素や点滴もなく、診療行為はできなかった。「会議室にあったラジオだけが、唯一の外とのつながりだった」と菅野氏は話す。図書室にあったダンボールを床に並べて寝たきりの患者たちを休ませ、濡れた衣服を脱がせて、窓から外したカーテンを布団の代わりにかけ保温に努めた。

 「深部静脈血栓症(DVT)を防ぐため、数時間ごとに体を動かすように促した。ただ、どちらかというとみんなで声を掛け合い、励まし合うのが目的になっていた。一晩中余震が続く中、患者が不安にならないよう、スタッフがよく頑張ってくれた」(菅野氏)という。しかしこの間、救助したにもかかわらず、溺水、酸素供給ができないなどの理由で亡くなった人もいた。

備蓄の必要性を痛感
 震災2日目の朝の時点でも2階の天井まで水が残っていたが、昼には地面から膝丈くらいの高さまで引いた。午後には自衛隊の救助ヘリコプターが到着し、患者の搬送が始まった。「在宅酸素療法の必要な患者を最優先し、次に透析患者、寝たきり、胃ろうの方などを運んでもらった」と菅野氏は話す。ここまで搬送した時点で日没となったため、菅野氏自身はもう一晩病院で過ごした。翌日、自身もようやく石巻赤十字病院に運ばれた。

 「病院では津波を想定した訓練をしており、3階以上に避難することになっていた。1960年のチリ地震では津波の高さが2.8メートルだったので、その倍の6メートルの3階以上であれば安全と考えたが、実際には4階天井まで浸水した。救助できたのは42人。最上階にはライフラインも酸素も点滴もなかった。わずかな量でも備蓄があれば、救えた命があったかもしれない」と菅野氏は悔しさもにじませた。

 震災後、全国から災害医療派遣チーム(DMAT)徳洲会医療救援隊(TMAT)国境なき医師団など様々な医療チームが医療支援のために南三陸町に入った。「南三陸町の医療、命は全国の方々の力に支えられた」と菅野氏。「大きな震災で自分自身、正直とても怖かった。生き残った者として、今後この震災のことを伝えていきたい。また南三陸町をはじめ被災地の方々が自立できるその日まで、寄り添って支えたい。一方で、津波被害を想定した備蓄をはじめ、入院患者のために改善できる点がないか検証したい」と今後について話した。

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