「four fours、できたかー?」
「5ができなくて」
数日後、森田雄一郎は再び、起立性調節障害で入院中の女子中学生、濱田実結と話をしていた。ノートを見たら、4までは計算式が書いてあるが、5以降は何も書かれていない。
今日は午後に話をしているからか、単純に改善しているからなのか、この前より反応がいい。ベッド周りを見ると、漫画と小説、それにオセロが置いてある。
実結は順調にホスリボンを終了して、その後、血圧を上げるためにメトリジンを開始していた。内服を開始してから、収縮期血圧は100mmHgを超えるようになった。ただ、薬を飲み始めてから何か変わったことがあるか尋ねても、実結は首をかしげるだけだった。特に自覚もないようだ。
「先生とオセロやったんだって?」
「はい」
「勝てた?」
実結は首を横に振った。表情はあまり変わらない。
「ご飯は食べてる?」
「……はい」
少し間が開いた。面談前に、ここ数日の食事量を電子カルテで確認していたが、まだ波があった。それでも半分以上は食事を取れる日が増えている。雄一郎は質問を続けた。
「この前より反応いいみたいだけど、調子良くなってきたか?それとも、ただ午前中の方が調子悪いだけかー?」
「良くなってきた、と思います。でも、午後の方が調子いいです」
やっぱり午前中は駄目か。
「ちょっと手を触っていいかなー」
「はい」
実結の手は、熱くも冷たくもない。汗が出ている感じもない。
「漢方薬出したら、飲める?」
いいのがあるんだけど、と付け足しながら、雄一郎は反応を待った。
「……多分。ものすごくまずくなければ」
「大丈夫だよ。冷えることある?冷え性?」
「……特に」
顔色も悪くなく、ほてったりしているようでもないので、寒熱は中間証といったところだろう。ただ、やってみると言った計算もそれほど進んでいないし、オセロにもそこまで執着はないのだろうか。気虚でよさそうだ。
調べたところ、ODに対して半夏白朮天麻湯を使うこともあるようだが、冷えはなさそうなので、補中益気湯でもいいかもしれない。
本人に治す気はあるのか?
「森田さんのカルテ見て、思わず笑っちゃいましたよ」
「俺、そんな面白いこと書きましたっけー?」
「本人が治す気あるのか分からない、ってコメントですよ」
雄一郎は「ああ」と苦笑した。実結の主治医である和泉麻衣は、「実際、そこなんですよね」とぼやいた。
「そうそう、補中益気湯、いいみたいですよ。朝起きられるって言ってました」
「そうですかー。効果出るもんですね」
「しばらく続けようと思ってます」
「そうしたら、そろそろ退院ですか?」
入院日数は10日を超え、食事量も徐々に増えてきて、リフィーディング症候群の懸念もなくなった。入院当初やっていた点滴も2日で終わって、内服も安定している。
「退院させたいんですけどね。いつ帰るんだろ、あの子」
麻衣は、自分の爪を見つめながらため息をついた。退院の話を出すと、まだ不安だから、といって先延ばしにするらしい。雄一郎も、もはややることを思いつかなかった。
それとは別に、雄一郎は気になっていることがあった。いつも元気と愛想を振りまいているような麻衣が、実結の話になると、明らかにテンションが下がっている。
「先生、この子に対しては、なんか積極的じゃないですよね」
麻衣は「ああ」という顔になって、
「初期研修の病院で、さんっざん、ODの患者、診てきたんですよ」
「さんっざん」に力を込めて言った。「季節や地域もあるのかもしれないけど、前にいた病院では、すごい数の患者を診てたんですよ。彼らって、基本的に朝起きれないじゃないですか。予約の時間にまず来なくて、午前の診察終わりぎりぎりの11時半とかにぐわーって来るんです。もー!って感じですよね」
なるほど。それは彼らの特性を考えたら納得できる。
「それに、森田さんが言ってるように、治す気あるのか分かんない子も多いし。あと、私、朝ぱっと起きられる人だから、ODの人の気持ちって、全然分かんないんですよ」
「……俺も朝は強い方だから、理解できないかもしれないですねー」
雄一郎も、小学生の頃から剣道をやっているが、朝練は苦にならなかった。
「私たちみたいな人から見たら、ただ、やる気ないだけに見えますよね。そこまで言わなくても、本当に調子が悪いのか、詐病なのか分からないし。きっと家で強く言われて、すねちゃって、食べなくなった、ってとこでしょうね」
新規に会員登録する
会員登録すると、記事全文がお読みいただけるようになるほか、ポイントプログラムにもご参加いただけます。
著者プロフィール
とみの ひろみつ氏 東京理科大学薬学部卒。天然物化学専門だったが、研究に挫折して薬剤師として薬局に勤務。その後、薬局勤務を続けながら、ウェブクリエーター、ライターなどとして活動。2004年より千葉県の総合病院薬剤部に勤務し、現在は関連病院に赴任。執筆活動も継続中。趣味は音楽ゲームとプロ野球観戦。

連載の紹介
富野浩充の「当直室からこんばんは」
病院薬剤師として勤務する富野氏が、クスッとできて、時にホロリとし、たまにムカッとしてしまう病院業務の日常を赤裸々に綴ります。薬のことにはほとんど触れない個人のホームページはこちら。※登場人物の名前は全て架空のものです。内容は事実を元に再構成したフィクションです。
この連載のバックナンバー
-
2020/06/08
-
2018/12/06
-
2018/11/24
-
2017/12/15
-
2017/07/20