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留学、MBA、コンサル、そして臨床
多彩なキャリアは師の逆鱗から始まった
昭和大学麻酔科主任教授 大嶽 浩司

大嶽 浩司先生
Hiroshi Otake
昭和大学麻酔科主任教授●1998年東京大学卒。帝京大学医学部附属市原病院、シカゴ大学ビジネススクールMBA課程、帝京大学医学部附属病院、自治医科大学を経て2013年から現職。16年4月からは、昭和大学病院副院長を兼任する。

 医学生時代、麻酔科は選択肢にありませんでした。しかし、帝京大学医学部附属市原病院(現・帝京大学ちば総合医療センター)の麻酔科に当時勤務されていた故・森田茂穂先生の人間的な魅力に引かれ、市原病院の麻酔科に入局することを決めました。

 医師2年目になったある日、森田先生に突然「来年からオーストラリアに臨床留学しないか」と言われました。しかも、無給と言います。初期臨床研修制度などなかった当時、私は既に心臓手術麻酔なども担当していましたが、本当に薄給で働いていて、貯金がありません。その頃は、もっと麻酔の技術を磨いて、一流の「稼げる」医師になりたいと思っていました。今思えばとても恥ずかしいのですが、当時の私の価値観では、「一流の医師」とは「需要の高い、稼げる医師」だったのです。

「金で評価が決まるなんてくだらない」
 そのような考えの私がオーストラリア行きに難色を示すと、それまでとても優しい人だと思っていた森田先生に、初めて強く怒られました。森田先生はその場で医局長に電話を掛け、その日からオーストラリアに行くまでの約3カ月、私は毎日当直することを決められてしまいました。その3カ月、私は寝た覚えがほぼありませんが、おかげでオーストラリア行きの前日には300万円ほどの貯金ができていました。そのときになって、森田先生は「金なんて、どうにでもなることが分かっただろう。金で評価が決まるなんて、そんなくだらないことを言うな」と真意を語ってくれました。

 オーストラリアに行ってからは、英語もほとんど分からない中でなんとかライセンスをもらい、研修医のクラスに入ることになりました。私は卒後3年目でしたが、なぜか2年上のPGY5(post graduate year=卒後5年目)のチームに入れられて働くことになりました。英語ができないだけでなく、臨床の実力も周囲に劣るという状況ですから、苦労は多くありました。しかし、1年を終えて日本に戻るころにはとても良い経験をさせてもらったという感謝に変わっていました。

 この臨床留学では、もちろん麻酔の技術も勉強しましたが、異文化の中で働くという経験ができたことが最大の収穫でした。日本では中心静脈(CV)ライン挿入なども普通にやっていたのに、オーストラリアでは駆血帯からして別物で、末梢点滴のルートすら取れません。日本で麻酔の技術を磨き、実力が付いたように錯覚していたけれど、上級医や看護師、技師など周りの人たちがパフォーマンスをさせてくれていただけだったことに気が付きました。環境や機器が違うだけで通用しない医師なんて、一流とは言えません。森田先生は多くを語りませんでしたが、オーストラリアから帰る頃には、この1年の意義を実感していました。

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