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医師は患者の希望を、どこまで聞くのか?
ダメ女医を通して考えさせる終末医療の是非『終の信託』(2012年)

2014/02/14

 私は映画の黄金時代に思春期を迎えたので、その後の、特に日本映画の斜陽化と、新しい媒体(ビデオ)の登場に伴う変化(画質や構成)になじめないことが多く、古い映画に懐かしさを抱く。これには年寄りの性癖である「昔はよかった!」という気持ちも幾分あると思うが、私より若い熱烈な映画ファンも、黄金時代の映画をビデオやDVDで鑑賞して「古い時代の映画の方が面白い」と言う。

 映像を自宅でいつでも好きなときに鑑賞できる時代が到来し、今では年齢差を超えて1本の映画を語り合うことができるようになった。そこでは多くの場合、古い映画の方が盛り上がる。そのため私は自信を深め、現代の映画よりも「古い作品が優れて映画的なのだ!」と確信するに至ったため、本欄も古い映画が中心になる。しかし、いつも古い作品では…とも思うので、今回は比較的、新しい映画を紹介しよう。と言っても、1年半ばかり前の公開である。

 『シコふんじゃった。』(平成4年[1992年])、『Shall weダンス?』(平成8年[1996年])でユニークな着想の喜劇を監督した周防正行が、痴漢の疑いをかけられた青年の苦難を描いたシリアスな『それでもボクはやってない』(平成19年[2007年])に続いて、更にシリアスな題材を扱ったのが、『終の信託』(平成24年[2012年])。主役は『Shall weダンス?』で共演したバレリーナの草刈民代と役所広司(草刈はこの映画が縁で周防監督と結婚し、10余年後にはバレリーナを辞め、女優専門になった)である。

俗っぽい女医の行為が問う、終末医療の是非
 草刈扮する、何かを思い詰め、影を持つ女医が検察に呼ばれる暗い場面から映画は始まる。被疑者である女医を薄暗い廊下で、約束の時間が来ても必要以上に待たせるのは、検事側の計算。ここで映画は「呼ばれた理由」を回想で示していく。映画の常套手段で、多数の映画が採った形式である。

 彼女は呼吸器内科の医師として信頼され、腕も確かなようだが、浮気な同僚医師(浅野忠信)と関係を結んでおり、その関係が潰れたときに、あろうことか当直室で自殺を図るという節操のなさである。この俗っぽい、人間的には立派でない女医を主人公にすることで、観客は女医に感情移入することなく、終末医療の是非を客観的に考えざるを得なくなる。実際に、草刈は人生に疲れた気だるさが漂い、「かっこいい」とはいえない女医役を好演しているので、このような考えが出てくる。

 その意味では監督の手腕は素晴らしいが、これを描くのに、冒頭から強烈な裸のベッドシーンが必要なのだろうか?という疑問も湧く。これは最近の、日本のみならず世界的傾向で、やたらに必然性のないベッドシーンや裸を見せたがる映画が多くなり、古い映画ファンの私としては、大いに違和感を持つ。聖人君子ぶるわけではないが、この映画が扱う重い主題との違和感は極めて大きい。女医の節操のなさや、人間的にダメな姿を印象づけるのなら、他の表現がいくらでもあったはず、と思えてくる。

 さらにいえば、彼らは病院の処置室のような所でコトに及ぶが、「そこまで節操のない医師はいないゾ!」と言いたくなる。一般に映画は現実を誇張し、あり得ない場面(多くは都合のよい出会いなど)があるのは普通で、それが許せる範囲にとどまれば、目くじらを立てないで楽しむのが礼儀である。しかし、この処置室での医師同士の裸やベッドシーンはまったく噴飯物である。

 かつてフランスに、女優と次々に結婚を重ね、常に妻になった女優を裸にしていたロジェ・ヴァディムという有名監督がいたが、監督とは観客に「自分の嫁はん」の裸を見せる職業なのか? それとも、周防監督は昔ピンク映画を撮っていたから、その時の思いが蘇ったのか? などと、いらぬ推測をしたくなる。

著者プロフィール

冨田和巳氏(こども心身医療研究所所長/大阪総合保育大学児童保育学部教授)●とみたかずみ氏。1967年和歌山県立医大卒。小学生の頃から映画を観つづけ、映画鑑賞が最大の趣味。『小児心身医学の臨床』(診断と治療社)、『小児心療内科読本』(医学書院)などでも映画を扱ったコラムを執筆した。

連載の紹介

冨田和巳の「映画で考える医療と社会」
今や、DVDや映画専用チャンネルなど、映画は自宅で簡単に鑑賞できる時代です。これまで映画館に行く時間がとれなかった映画好きの医師に向けて、医療・医師を中心とした作品を紹介します。映画評論家風のコメントではなく、臨床医の立場から、映画を通して見た医療と社会について意見/異見を綴ります。

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