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研修医Eさんへの返信に代えて―「私が地域医療から身を引くまで」

2010/07/20

 Eさん、研修で毎日お忙しいことと思いますが、いかがお過ごしですか。先日いただいたメールでは、「大学の整形外科で後期研修を始めたものの、かねてから地域医療に興味があり、これからの進路に迷っている」ということでしたね。その際の返信では、私の真意を伝え切れなかったような気がしますので、自分自身の地域医療の経験談をお話しすることでご回答に代えたいと思います。

 僕が地域医療に惹かれるようになったのは、医学部の教養課程の物理学の授業がきっかけでした。物理学の松崎一教授は、医師で作家の北杜夫の恩師でもある方です。旧制高校時代の教養主義の香りがいまだ残る教養課程で、松崎先生は、学生がこの後、医学教育を受けることを意識して授業を行っておられたようです。今になって思うと、松崎先生の物理学の授業は、通常の教養課程のレベルを超えたものでした。法学部出身の僕は、物理学は付け焼き刃で勉強しただけで、内容はほとんどちんぷんかんぷん、まさに「猫に小判」の内容ではありました。

 そんなある日、先生は「これは物理学の話ではないが…」と断りながら、自ら北海道に入植したある医師の手記を紹介してくださいました。当時の入植者たちは貧しく、診療費が払えないため、かわりに収穫した野菜で払ったり、「出世払い」という形にすることがよくありました。そのため、当の医師自身も食うや食わずの大変な生活だったそうです。ちなみに、明治時代に北海道に入植し、農場を設立した医師・関寛斎について、以前にこのブログでもご紹介いたしました(関連記事:2008.7.11「ある医師の軌跡―関寛斉という生き方」)。

 卒業後、僕は関西のある大学の麻酔科に入局しました。地域医療に従事したいという思いはありましたが、最初から佐久総合病院や諏訪中央病院などの有名な病院に飛び込む勇気はありませんでした。大学でまず最低限の救急蘇生や麻酔の知識を学んで、いずれ地域の病院に飛び込んでみよう。そんな風に考えていました。

 なぜ、そんなに地域医療にこだわったのか。大学にずっと身を置いたままでも、いわゆる「ジッツ」と呼ばれる関連病院を渡り歩けば地場の事情も分かりますので、それなりの地域医療の従事者となり得たように思います。振り返ってみると、自分の地域志向は、青年特有の思い込みであったのでしょう。

 ただその時は、中国で60年代半ばに創設された「裸足の医師」(3カ月~1年間の研修を受けた若者が、農村で初期診療に従事する制度のこと)のように人民の中に入り、地域で医療を行うのが、理想の極致のように考えていました。当時は針麻酔が注目を集めており、僕が大学での研修を半ばで切り上げたころに、交換留学で中国の針麻酔を学んできた同じ大学のN先生が帰国され、「竹中蔵書」と刻んだ「はんこ」のお土産をいただきました。そうしたことも、自分の地域医療志向を刺激したのかもしれません。N先生は現在、その大学で准教授の要職を務めておられます。

 その後、現在は鎌田実先生の著作で有名になった諏訪中央病院で研修を受けました。諏訪のもう少し東、山ひとつ超えれば、マグサイサイ賞を受賞した若月俊一先生の創立した佐久総合病院があります。現在、日経メディカル オンラインで同じくブログを連載中の色平哲郎先生や、芥川賞作家の南木佳士先生が病を抱えつつ診療されている農村医学のメッカです。

 当時、諏訪中央病院は、鎌田先生の先代の今井澄先生が、必死で病院再建に取り組んでいました。そこはまるで、朝鮮戦争を題材にした映画『マッシュ』に出てくる野戦病院のようで、大学で麻酔のイロハの「イ」程度しか学んでいないモラトリアム青年にとっては、荷の重い戦場でした。

著者プロフィール

竹中郁夫(もなみ法律事務所)●たけなか いくお氏。医師と弁護士双方の視点から、医療訴訟に取り組む。京大法学部、信州大医学部を卒業。1986年に診療所を開設後、97年に札幌市でもなみ法律事務所を開設。

連載の紹介

竹中郁夫の「時流を読む」
医療のリスクマネジメントを考えるには、医療制度などの変化に加え、その背景にある時代の流れを読むことも重要。医師であり弁護士の竹中氏が、医療問題に関する双方向的な意見交換の場としてブログをつづります。

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