日経メディカルのロゴ画像

ある医師の軌跡―関寛斉という生き方

2008/07/11

 先日、九州から知人が非常勤講師にやってきました。医療システムの講義を院生たちと一緒に聞かせていただいて、講義後の懇親会で旧交を温めました。その講義の最後に、この先生がおまけにと紹介されたのが、幕末から明治時代を生きた蘭方医の関寛斎(せき かんさい、1830年3月12日-1912年10月15日)です。

 関寛斎は、1830年(文政13年)、今の千葉県東金市東中の農家吉井佐兵衛の長男として生まれました。儒家関俊輔の養子となり、その薫陶を受け、長じて佐倉順天堂に入り佐藤泰然の門下で蘭医学を学びます。26歳の時銚子で開業しますが、豪商濱口梧陵の支援で長崎に遊学します。

 この濱口梧陵という人物は、ヤマサ醤油の前身濱口儀兵衛商店の7代目で、1854年(安政元年)に安政南海地震の津波が広村(現和歌山県広川町)に襲来した際、大量の藁の山に火をつけて安全な高台への避難路を示し、村人を救ったことで有名です。これをもとに作られた「稲むらの火」という物語は今も語り継がれています。

 寛斉は、長崎でオランダ人医師ポンペに最新の医学を学びました。その後、徳島藩のご典医となり、戊辰戦争では官軍の奥羽出張病院頭取として、兵站の楽でない政府軍のもと野戦病院で傷病兵の治療だけでなく、財政的にも厳しい病院経営に腐心しました。

 戦地から徳島に戻った寛斎は、藩立医学校の創設に情熱を燃やし、付属病院長、教授に就任します。医学校開院式の日、待遇に不満を持つ医員たちが来賓の藩参事を胴上げして床にほうり出してしまい、寛斎はその責任を問われ、謹慎処分を受けます。一時は復職したものの、結局は退官し、1873年(明治6年)、徳島に診療所を構え以後約30年間、町医者に徹します。

 寛斎は、貧しい人からは治療費を受け取らない赤ひげ診療を行い、住民たちからは「関大明神」とあがめられ、関医院にいたる道は徳島人から「関の小路」と称されていたといいます。ここまでも結構な波瀾万丈の人生ですが、すごいのはここからです。

著者プロフィール

竹中郁夫(もなみ法律事務所)●たけなか いくお氏。医師と弁護士双方の視点から、医療訴訟に取り組む。京大法学部、信州大医学部を卒業。1986年に診療所を開設後、97年に札幌市でもなみ法律事務所を開設。

連載の紹介

竹中郁夫の「時流を読む」
医療のリスクマネジメントを考えるには、医療制度などの変化に加え、その背景にある時代の流れを読むことも重要。医師であり弁護士の竹中氏が、医療問題に関する双方向的な意見交換の場としてブログをつづります。

この記事を読んでいる人におすすめ