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「知の巫女」みまかる

2007/03/16

 哲学エッセイで人気の高かった池田晶子さんが、2月23日亡くなられました。ベストセラーとなった「14歳からの哲学」「41歳からの哲学」など、中学生から中高年まで幅広いファンを持つ書き手でした。享年46歳、昨夏発見された腎臓癌による死亡です。

 私も何冊かの単行本を読みましたが、最近は週刊新潮に連載されていた「人間自身」というコラムを愛読していました。もともと池田さんは、「いかに正しく考えるか、善く生きて逝くか」という難しいテーマに真っ向から取り組まれた硬派の書き手ですから、ほぼ毎回のように「生」と「死」が語られていました。昨春には、「上手に死なせて」という題で末期患者の安楽死問題で医者が殺人犯扱いされることに同情するコラムを書かれていました。その中には、「死それ自体は人間の意志を越えているからこそ、人は死ぬことができるのである。そうでなければ、どうして人に死が訪れることがあり得よう」という「死」そのものでなく、「死に方」に拘泥することを転倒と見るかの記載もあり、法律家の目から見れば少々暴論かなとの印象を否めませんでした。このころは、より池田さんの見方に近づいている自分を感じたりもしています。

 腎臓癌を発見された後の昨秋は、「生死は平等である」という題で、以下のように語っておられました。
 

「言葉」、この話題はすんなり通じるか、全く通じていないか、どちらかのような感じがする。「自分」、この話題はたぶんほとんど通じていない。 「生死」、この話題がどうも一番厄介だということに気がついた。生死こそ人間の最も本質的な問題だが、だからこそ通じていない。多くの人は死に方のあれこれをもって死だと思い、本意だ不本意だといい、気の毒だ立派だと騒いでいる。しかし「死に方」は死ではない。現象は本質ではない。本質とは「死」そのものが何であるかであるが、これが通じない。生きるのは権利であり、死ぬのは何かの間違いであると思っている。しかし、生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち生きている者は必ず死ぬ。癌も心不全も脳卒中も、死の条件であっても、死の原因ではない。すべての人間の死因は生まれたことにある。どこか違いますかね。

著者プロフィール

竹中郁夫(もなみ法律事務所)●たけなか いくお氏。医師と弁護士双方の視点から、医療訴訟に取り組む。京大法学部、信州大医学部を卒業。1986年に診療所を開設後、97年に札幌市でもなみ法律事務所を開設。

連載の紹介

竹中郁夫の「時流を読む」
医療のリスクマネジメントを考えるには、医療制度などの変化に加え、その背景にある時代の流れを読むことも重要。医師であり弁護士の竹中氏が、医療問題に関する双方向的な意見交換の場としてブログをつづります。

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