日経メディカルのロゴ画像

「救急車を呼ばないで!」米国無保険者の悲劇

2010/09/22

 国民皆保険のない米国で起こる、保険のない患者さんの悲劇は、日本でも伝えられている通りである。実際、ナースプラクティショナーNP)として働いていると、心がしぼられるような事件もたまにある。その中でも印象的だったのは、ある男性の患者さんだった。

 私の働いていたコネチカット州の内科の診療所は、病院のすぐ向かいにあった。ある日、予約がないのに診察してほしいとやってきた男性がいた。「待合室で様子がおかしい」と受付の准看護師が知らせてくれたので見に行くと、初老のアフリカ系アメリカ人の男性がいすに座って、肩で大きく息をしている。「胸が気持ち悪くて、喉が焼けるようだ」と途切れ途切れに言う彼に、「今すぐ救急車を呼びましょうか」と言ったが、「ここで診てほしい」と彼は言う。そこで、すぐに診察室に来てもらい、顔を見て驚いた。

 ほおがこけていて気がつかなかったが、それは、90代の認知症のAさんにいつも連れ添ってやってくる、息子のBさんだったのだ。仕事帰りのスーツ姿で冗談を言いながら、Aさんの手をとって、愛おしそうに横を歩く彼は、息子の鑑だと私はひそかに思っていた。そんな、まだ50代後半のはずのBさんが、杖に体をもたせてなんとか座っていた。

 高齢者国民保険メディケア)が適用されている父親Aさんは何度か診察したことがあるが、Bさんを患者として診るのは初めてであった。米国では 民間保険を、企業が雇用者に安く提供するのが一般的だ。個人で民間保険に入ろうとすると、ものすごく高い。Bさんは、小さな不動産会社に勤めており、健康保険は提供されていなかった。ほかの診療所で、現金払いで診察を受けたこともあるが、血糖値やコレステロールなどの検査は、何度も勧められたけれど、「数百ドルかかる」と言われ、行わなかったという。「先月、会社をクビになったんだけど、明日○社との面接があるんだ。○社は大企業だから、健康保険が出る。どうしてもこの仕事を手にいれなきゃいけないんだ。病気になんかなってる暇はないんだよ」

 メディカルアシスタントに心電図を取るように指示し、手早く血糖値を取った。グレーの画面に「高-計測不能。ケトン有」との字が浮かんだ。「Bさん」声をかけた。「あなたの具合が悪いわけが分かった。糖尿病。血糖値が高い。今すぐ病院に行かないと危ない」

 すると、「行けないよ」と、Bさんは子供のように泣き出した。「親父は僕が帰らなかったら、怖がるよ」。

 かなり認知症が進んでいるAさんは、ぽつんと家でBさんの帰りを待っている。もらい泣きしそうになりながら、「何言ってるの!お父さんのためにも良くならなきゃ。誰か知り合いに頼むのよ」と、なんとかBさんを説き伏せた。

職を失って得た健康保険
 ところが、911(日本で言う119)をダイヤルしようすると、「お金がない! お願いだから救急車は呼ばないで」と彼は言う。先輩NPや医師たちからは、「患者の希望に関係なく、緊急時には救急車を呼べ」と教わった。患者が救急隊員に乗車拒否を伝えれば、その時点で患者の責任となるし、拒否したという証人にもなる。患者が、例えば家族の車で病院に行くと言った場合も、万が一車の中で容態が急変した時、無理矢理にも救急車を呼ばなかった自分の医療過失を問われるかもしれない。

著者プロフィール

緒方さやか(婦人科・成人科NP)●おがた さやか氏。親の転勤で米国東海岸で育つ。2006年米国イェール大学看護大学院婦人科・成人科ナースプラクティショナー学科卒。現在、カリフォルニア州にあるカイザー病院の内分泌科で糖尿病の外来診察を行っている。

連載の紹介

緒方さやかの「米国NPの診察日記」
日本でも、ナースプラクティショナー(NP)導入に関する議論が始まった。NPとは何か?その仕事内容は?米国で現役NPとして働く緒方氏が、日常診療のエピソードなどを交えながら、NPの本当の姿を紹介します。

この記事を読んでいる人におすすめ