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今さらながらの死生観(前編)
「死」を知らない医師

2011/11/09
小鷹昌明

 私の受け持ち患者が、不本意にも次々に亡くなられていく。筋萎縮性側索硬化症(ALS)で人工呼吸器の装着を希望しなかった患者、パーキンソン病で終末期を迎えた患者、若年性アルツハイマー病を苦に自殺した患者、難治性てんかんに胆嚢炎を合併し播種性血管内凝固症候群(DIC)を併発した患者…。

 永遠に尽きることのない「死」について、医師として人間として延々と繰り返している自問自答の一端を紹介したい。

 いわゆる“死生観”に、正解はもちろんない。100人寄れば100通りの回答があることも十分承知しているが、私のような仕事をしていると、個々の“人の死”というものに迅速に反応する一方で、どのような死も画一的に扱いたくなりがちだ。シビアに死を見つめようとする一方で、頭の中だけで軽率に解釈してしまう。

 正直なことを言えば、私はこのような仕事をずっとしているわりには、死がどういうものかをいまだに理解していない。恥ずかしいことだが、死の対処の仕方を知らない。

 医師として、生死を判断し、死亡宣告はできる。しかし、自死志願者に対して何を言ってあげたらいいか分からないし、天に召されようとしている人に何をしてあげたらいいか、まったく思考は追いつかない。

 つまり、私は“職業的医術師”というだけであって、感覚的には死を遠ざけている。人間の死を理解した医師という“人間的死術医”(勝手に私が創った言葉だが)とは、ほど遠い。

 当たり前だが、人の数だけ「死」がある。今後、死は確実に、そして大幅にその数を増やし、存在感を肥大化させていく。近い将来、日本人の2人に1人は癌で死亡するようになるといわれている(心筋梗塞はその半分で、脳卒中は半分弱)。

 それが何を意味するかといえば、「緩やかに確実に進行する病が急増し、それに伴いはっきり予見できる死が増える」ということである。さらに、余命もかなりの精度で算出可能になる。人々の切望している“正確な情報”が、医療の分野にも浸透してきた代償である。

 私たち医師は、「個人の尊厳の尊重」という名目の下、多分に「聞いていなかった」というトラブル回避のため、告知や余命などの情報開示に躍起になっている。「お医者様にお任せいたします」は「患者様がお決めください」へと主客が変換し、「癌という病名さえ告げられなかった」ものが、「癌で5年生存率は10%です」などと告げられるようになった。そして結局、手立てがなくなれば、「悔いのない人生を過ごしていただくために、病気と向き合ってください」と言い放つ。

科学は死を癒やさない
 当たり前のこととして勘違いしていけないのは、「どれほど科学が進化・発展しようとも、死を克服することはできない」ということである。

 医学は科学から成り立っているが、医療という技術は経験を拠り所とした仮説である。「目的が違う」と言われれば、その通りかもしれないが、臓器移植や再生医療、ゲノム情報の利用といった先端医療が、人の死を変質させることはない。さらに言うなら、長寿の秘訣や生きがいが強調されればされるほど、死に直面したときの安息は得られにくい。

 脳という臓器は、精神活動や運動、知覚を司り、ものごとを記憶して再生する。人間の知性と感性は脳によって支配されている。だから、私たち脳・神経内科医は「脳は唯一移植できない臓器である」と誇らしげに語る。しかし、裏を返せば、死んでしまえば誰も引き取り手のない、ましてや他者の中で生きることもない臓器ということである。

著者プロフィール

小鷹昌明(南相馬市立総合病院神経内科)●おだかまさあき氏。1993年卒後、某大学神経内科に所属し、病棟医長、医局長、准教授を歴任。一念発起して2012年4月から現職。「今、医療者は何を考え、どうすべきか」をテーマに、現場から情報発信を続ける。

連載の紹介

小鷹昌明の「医師人生・四“反省”期」
医学部入学から四半世紀になろうとしている小鷹氏。自分の医師人生を四“反省”期として振り返ります。医療・医学、社会問題・社会現象、人間関係・生き方、自らのこだわりといった4つのテーマについて、様々な角度から語ります。

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