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「総合診療」という言葉がなかった頃

2014/11/10

 大学病院から「総合診療科」の看板が次々と下ろされていったのは、ついこの間のはずだったのに、今や老いも若きも総合診療を論じる時代になりました。中でも若い人たちがトレンディな言葉に飛び付くのは分かるのですが、今まで何十年も「総合診療」をやってきたはずの、おじさん、おばさんと、それ以上の世代の方々までもが熱い議論に加わっています。

 医学部に入り、命とお金のやりとりをするような厳しい世界を目の当たりにした私は、総合診療どころか、自分のような臆病な人間は現場の厳しさに耐えられないと感じていました。かといって、基礎研究で生き残る自信があるわけでもなく、臨床の片隅に居場所を求めるべく、二つの理由で母校の神経内科に入局しました。

 第一の理由は、「分からない。治らない」と敬遠される診療科ならば入局希望者が少なくて競争しないでも済むからでした。第二の理由は、教室の教育方針にありました。当時、教室主任であった塚越廣先生(東京医科歯科大神経内科初代教授)は、「神経内科医は一生神経内科を勉強するのだし、患者さんは神経疾患以外の病気も持っているのだから、せめて初めの2年間ぐらいは、神経内科以外のことを勉強する必要がある」との信念を持っていらっしゃいました。これが私にとっては、将来ドロップアウトするようなことがあっても「潰しが効く」教育に見えたのです。

 ところが、当時の大学では、各教室の垣根を越えたローテーションシステムなどありません。そこで塚越先生は、第一、第二、第三の各ナンバー内科の各教授にそれぞれ掛け合って、各教室の研修医が神経内科にローテートできるようにするのと引き替えに、神経内科の研修医が卒後2年間、各ナンバー内科の臓器別診療チーム、さらには大学外の各ナンバー内科の関連病院にまでローテーションできるように教育システムを構築してくださったのです。こうして今から32年前、私の研修が始まりました。神経内科では誤嚥から肺炎を起こしやすい病態、呼吸管理を必要とされる疾患には頻繁に遭遇しますから、私はまず、第二内科の呼吸器チームで研修することにしました。

 そうして新人研修医として働き始めて2カ月も経たないうちに、20歳代の男性が肺炎で入院してきました。190cm近くある長身が非常に印象的でした。なぜ若い男性の肺炎を、市中病院ではなく大学病院で診るのだろう思って話を聞くと、1ヵ月以上も熱が続いているが、抗菌薬を処方されてもなかなか治らないからとのことでした。しかも、その間、生活費を稼ぐため、毎日新聞配達を続けていたというのです。1年目の研修医ながらも、そんな経過をたどる肺炎なんてあるのだろうかと思いながら、聴診器を取り出した途端、見事な漏斗胸を見て、あっと思いました。

著者プロフィール

池田正行(高松少年鑑別所 法務技官・矯正医官)●いけだまさゆき氏。1982年東京医科歯科大学卒。国立精神・神経センター神経研究所、英グラスゴー大ウェルカム研究所、PMDA(医薬品医療機器総合機構)などを経て、13年4月より現職。

連載の紹介

池田正行の「氾濫する思考停止のワナ」
神経内科医を表看板としつつも、基礎研究、総合内科医、病理解剖医、PMDA審査員などさまざまな角度から医療に接してきた「マッシー池田」氏。そんな池田氏が、物事の見え方は見る角度で変わることを示していきます。

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