日経メディカルのロゴ画像

医事裁判における“検査万能教”~その2~

2013/07/11

 裁判では人生や命に直接関わる判断が下されるわけですから、裁判で採用される検査法・検査結果については、臨床現場と同様の科学的妥当性の検討が当然必要なはずです。ところが、現行の制度ではそれを担保する仕組みがありません。

 前回のブログで触れた北陵クリニック事件1)において、「患者体液中に筋弛緩剤であるベクロニウムを検出した」との検察側の主張の根拠になったのは、大阪府警科学捜査研究所(以下、大阪科捜研)による質量分析でした。質量分析法では、イオン化した標的分子を電場・磁場の中に導入、加速して検出します。質量が小さい分子ほど先に、大きい分子ほど遅れて検出器に到達するので、この時間差を精密に測定することによって、分子を同定するのが質量分析法の原理です。

 質量分析では、イオンは質量(m)とイオンの帯びる電荷(z)の比(m/z)の値によって運動性が異なり、各分子は固有のm/z値を持っています。検出器がイオンを捉えた結果を表わす質量スペクトル上で、ベクロニウムは、m/z557イオン(1価)あるいはm/z279イオン(2価)として検出されます。この2つのピークは、いずれもベクロニウムのイオンが壊れることなくイオン化されていることを意味しており、このピークが測定されたら、ベクロニウムの存在証明となります。反対に、これと違ったピークが測定されたら、ベクロニウムとは異なる化合物と考えるのが質量分析の根本原理です。

再現性無く、追試もできず、実験データも無い「鑑定」
 ところが、大阪科捜研の鑑定結果は、標準品からも鑑定資料からもベクロニウムがm/z258イオンとして検出されたというものでした2)。ベクロニウムが筋弛緩剤として登場してから20年以上が経ちますが、今日に至るまで、ベクロニウムそのものがm/z258イオンとして検出されたという報告は世界中のどこを探してもありません。

 さらに、鑑定書にはm/z258イオンが検出されたことを示す生の実験データが添付されていませんでした。つまり、「ベクロニウムの分子量が557.82ではない」とする世界初の発見であったにもかかわらず、どのような条件で実験が行われたのかすらも今日まで明らかにされていないのです。

 当然再鑑定が必要となりましたが、鑑定試料は大阪科捜研が全量消費したとされ、公判での再鑑定は不可能となりました。鑑定試料全量消費は犯罪捜査規範186条違反ですが、2004年3月、一審仙台地裁は「証拠能力や証明力に影響を及ぼさない」と判断しました。

 二審で弁護側は、ベクロニウムがm/z557イオンあるいはm/z279イオンとして検出されることを示した海外の4つの論文と、「m/z258イオンの検出では、ベクロニウムありとの証明にはならない」と明確に指摘した福岡大の影浦光義教授の実験鑑定意見書を提出し、「鑑定資料は不当にも大阪科捜研による犯罪捜査規範違反により全量消費とされてしまったので、それに代わりベクロニウム標準品の質量分析を行い、m/z258イオンの再現性を確認する必要がある」と鑑定申請を行いました。ところが、06年3月、仙台高裁はこの申請を却下しました。その理由は、「警察鑑定で使用された質量分析装置・分析条件と世界標準の方法は異なっているから、結果も異なる。m/z258イオンの検出はベクロニウムありとの証明になる」というものでした。

 さすがにこれではまずいと思ったのでしょう。最高裁で検察官は、弁護人上告趣意書に対する答弁書の中で、「ベクロニウムの質量分析では、必ずしもm/z557イオンあるいはm/z279イオンとして検出されるとは限らない。警察鑑定で検出されたm/z258イオンは、分子イオンが壊れて生成したフラグメントイオンである」と、それまでとは異なる主張をしました。ところが、核となる従来の主張を変更したこの答弁書でも、警察鑑定書と同様、実験データの添付はありませんでした。にもかかわらず、答弁書提出後の08年2月、最高裁は警察鑑定の内容に全く言及することなく、上告を棄却しました。

著者プロフィール

池田正行(高松少年鑑別所 法務技官・矯正医官)●いけだまさゆき氏。1982年東京医科歯科大学卒。国立精神・神経センター神経研究所、英グラスゴー大ウェルカム研究所、PMDA(医薬品医療機器総合機構)などを経て、13年4月より現職。

連載の紹介

池田正行の「氾濫する思考停止のワナ」
神経内科医を表看板としつつも、基礎研究、総合内科医、病理解剖医、PMDA審査員などさまざまな角度から医療に接してきた「マッシー池田」氏。そんな池田氏が、物事の見え方は見る角度で変わることを示していきます。

この記事を読んでいる人におすすめ