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クリニック開業はSARS禍の中

2012/04/27
大西洋一

写真1 シンガポールとマレーシアの陸路国境に設けられたスクリーニングポイントの看板。

 これまで10年間シンガポールで診療をしてきた中で最も大きな事件は、なんといっても重症急性呼吸器症候群SARS)の流行でした。2003年4月のことですから、この流行は皆さんもよくご記憶のことと思います。この全く新しい感染症は中国に出現し、瞬く間にアジア地域に広がって、香港で大流行した後シンガポールへも飛び火。多くの犠牲者を出して、社会的混乱を招きました。

 わがラッフルズジャパニーズクリニックが開業したのは2003年1月。まさに開業した矢先にSARSの流行に見舞われたわけです。後発の日本人向けクリニックとして開業したので当初の知名度は非常に低く、これから口コミで大いに患者を増やしていかなければならないという大事な時期でした。

SARSが怖いから病院には近づかない
 病気が流行すると、罹患したかもしれないと心配する人がたくさん病院に押し寄せるのではないかとお考えの方もいるかと思います。実際はその逆で、大した症状でもないのに迂闊に病院へ行ってSARSをうつされてはたまらないと、誰も病院には寄り付かなかったのです。

 わがクリニックを開いたのは、大病院の中の一角。しかも当時は、感染者はシンガポール人にしか出ておらず、日本人にはいませんでした。ですから、日本人向けクリニックに行くのならば、病院とは独立していて、日本人のみしか出入りしないクリニックで受診した方が感染リスクは低いわけです。

 こうしたわけで、開業間もないわがクリニックは、ますます日本人患者から敬遠されていったのでした。いきなり死活問題です。しかも、SARSはいつ終息するかも分からず、先行きが全く不透明な状態。いつまでクリニックを続けられるのか、非常に不安な日々でした。

 いろいろ考えを巡らせた末、苦肉の策として、ラッフルズメディカルグループのクリニックの一角を借りて、そこで臨時に診療を行うことにしました。シンガポール人が出入りする施設であることには違いありませんが、感染リスクは大病院よりはましと考えたのです。とはいえ、ただでさえ知名度のないクリニックが場所を移動しての間借り診療です。患者が来るわけがありません。1週間に2~3人も来ればよい方という悲惨な状況でした。今思い出しても、あのころほど1日が長く感じられたときはありません。

シンガポール政府の徹底した(ちょっと行き過ぎた?)対応
 SARS流行時のシンガポールの病院の状況についてちょっとお話ししましょう。まず、医療者の側も患者の側も診察にこぎ着けるまでが一苦労でした。

 病院の出入り口は一方通行に規制され、それぞれの出入り口は入り口専用と出口専用に分けられています。いつもの癖で向かった先は出口専用だったりして、わざわざ裏手に回らないと建物内に入れません。患者の中には、無理やり出口から入ろうとして、ガードマンと押し問答を繰り広げている人もいました。

 患者が病院に入るときは、入り口で問診票を書くよう要求されました。サーモスキャンカメラも設置されていて、体温がチェックされ、熱があればもちろんそのままでは入れてもらえません。入り口付近の屋外には臨時の待合室と診察室が設けられ、問診や体温チェックで引っかかった患者は、そこで医師の診察を待つことになります。

 赤道直下のシンガポールで屋外の待機は結構つらいものですが、つらさは医療スタッフのほうが大きかったと思います。スクリーニングを行うスタッフも、診察を担当する医師も、ディスポーザブルの帽子、マスク、ガウン、手袋、足袋の完全防備です。ただでさえ蒸し暑いシンガポールで一日中この格好でいるのは、かなりの重労働だったでしょう。

著者プロフィール

大西 洋一

ラッフルズジャパニーズクリニック院長

1992年に千葉大を卒業し、同大呼吸器内科に所属。2001年より2年間、シンガポール日本人会診療所にて在星邦人の診療に当たる。03年、ラッフルズホスピタルと共同でラッフルズジャパニーズクリニックを設立。10年には上海にもジャパニーズクリニックを開院。現在はシンガポールに家族を残して上海へ単身赴任し、診療を行う日々。目標は日本にラッフルズ病院を作ること。得意なことはネゴシエーション、苦手なことは英会話。

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