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シンガポール赴任の条件は、論文、子作り、産業医

2011/09/28
大西洋一

日本人会診療所の診察室に立つ筆者(赴任当時)。なお、診療所は2年前にリノベーションされ、今ではすっかり現代風に様変わりしています。

 医局からの派遣でシンガポール日本人会診療所に赴任したのは2001年3月のこと。03年4月からはラッフルズジャパニーズクリニックに職場を変え、いつの間にか日本を離れてから早10年が経ってしまいました。昨年9月には上海にもジャパニーズクリニックを立ち上げ、シンガポールに家族を残しての上海での単身赴任生活もちょうど1年になります。

「一生日本から出ない」と思っていたけれど…
 こう書くと、私のことをさぞグローバルな人間なんだろうと思われるかもしれませんが、実は海外デビューは遅いものでした。小学生の頃から語学(国語)嫌いで、中学以降は英語も大の苦手。そんな状況も手伝って海外には全く興味がなく、「おそらく自分は一生日本から出ないんだろう」と考えていました。

 大学を卒業して医師国家試験を終えたときも、卒業旅行と称して海外に出かける多くの同級生を尻目に、私はせっせとアルバイトに励んでいました。旅行に行くお金がなかったという事情もありましたが、そもそも海外旅行なんぞに全く興味がなかったのです。もっとも、旅行自体は嫌いでなく、その証拠に日本国内はあちこちに出かけました。医師になって4年目までには、日本中をくまなく泊まり歩き、1都1道2府43県を制覇していました。

 そんな私の海外デビューの機会は30歳のときに訪れました。当時働いていた病院で海外への職員旅行があり、同僚に誘われて仕方なく参加したのです。と言っても2泊3日のサイパン旅行。ご存知のように、ホテルのフロントでも土産物屋でも、サイパンでは至る所で日本語が通じます。街のレストランに入っても、メニューは日本語で書いてあります。旅行前には一応自分なりに英会話の練習(?)もしておきましたが、結局同僚からは「大西は日本語しか使っていなかったな」と冷やかされてしまいました。しかし、これで海外旅行に味を占めた私は、グアム、香港、シンガポール、バンコク、ソウル、ハワイへと足を伸ばしていきました。相変わらず、英語はろくに話せないままでしたが。

高尚な動機はないけれど、とりあえず日本を出てみたい
 そうこうしているうちに大学(千葉大)に戻り、大学院の学生となりました。そうすると、医局から留学の話なども出てきます。先輩や友人が留学に行ったという話を聞くと、「自分も行ってみたいな」という気持ちが起こってきました。とは言っても、海外の研究所で最先端の研究がしたいとか、医師としてキャリアを積みたいとか、高尚な動機ではありません。単に、「人生のうちで一度ぐらい海外生活を経験してみてもいいかな」といった、海外旅行の延長での発想です。しかしながら、現実的には3つの困難な事情がありました。

 1つ目はやはり言葉の問題です。生活だけならまだしも、仕事も英語でこなさなくてはいけないのかと思うと、自分には無理だろうと思いました。

 2つ目は仕事の内容です。当時大学院生だった私はラットの飼育と細胞の培養に明け暮れる毎日でしたが、それが嫌でたまらず、時々出かけるアルバイトが憩いの時間でした。患者の診療から大きくかけ離れた基礎研究は、私にとっては苦痛以外の何物でもなかったのです。研究留学すれば、臨床から全く離れて研究に専念しなければなりません。考えるだけでぞっとしました。

著者プロフィール

大西 洋一

ラッフルズジャパニーズクリニック院長

1992年に千葉大を卒業し、同大呼吸器内科に所属。2001年より2年間、シンガポール日本人会診療所にて在星邦人の診療に当たる。03年、ラッフルズホスピタルと共同でラッフルズジャパニーズクリニックを設立。10年には上海にもジャパニーズクリニックを開院。現在はシンガポールに家族を残して上海へ単身赴任し、診療を行う日々。目標は日本にラッフルズ病院を作ること。得意なことはネゴシエーション、苦手なことは英会話。

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