
クリニックでのクリスマスランチ。白衣を着ないので誰がドクターなのか分かりませんが、私を入れて4人の女性ドクター、2人の男性ドクターがいます。モスラムのスカーフをしている女性はナースです。
自分の人生に結婚はあり得ない――。私はてっきり、そう思っていました。
今の旦那さんと知り合ったのは、私が34歳の時。内科医として日本で10年間働いた後、骨代謝の研究のためオーストラリアのシドニーに渡り、それが一段落して日本に帰る間際、彼と出会ったのです。
当時、私は大学院の博士課程にいて、研究が一段落したので日本に帰り、論文を仕上げて博士号を…という計画でした。もし、彼に出会わなかったら、今頃はまだ大学に残って臨床あるいは研究をやっているか、どこかの病院に派遣されて勤務医として働いているか、はたまた開業していたか。皆目見当が付きません。
彼に出会うまではGP(general practitioner)という職業があることさえ知らなかったので、もしかしたら「ビビッ」としないまま日本で医師として漠然と働いていたかもしれません。それなりに生きがいもあるし収入もあるし、それはそれでよかったのかも…。今回の一文は、日々が漠然と過ぎていくと感じているような女性医師の方々に、特に読んでいただきたいです。
かけ足で進むより、大事なことは…
旦那さんと出会い、結婚を決めた時点では、医師として仕事を続けようと考えてはいませんでした。「オーストラリアで医師として働くなんて私には到底無理だけれど、向こうに行ってから考えればいいや」くらいにしか思っていなかったのです。ところが、親は、そんないいかげんを許しませんでした。「どうしても行くのなら、せっかく勉強した医学を生かせるように目的を持って行きなさい。6年間の大学生活と、10年間のキャリアと、臨床研究の成果がいかにももったいない」と。旦那さんも、私がオーストラリアでGPになることには一切反対しませんでした。
両親としては多分、医師としてどういうコースを取るにしろ、私は結婚せずにずっと日本で働いていくものだと思っていたのではないでしょうか。だから、オーストラリアで医師として働くことなんて、できない確率の方が高いと思ったのでしょう。私があきらめてくれるかも…という気持ちもあったかもしれません。
ずっと昔、あのイチロー選手(だと記憶しているのですが…)がインタビューの中で、「僕がプロ入りするとき、『あいつにできるわけがない』と言った親戚を見返してやろうと思った」みたいなことを答えていましたが、当時の自分を思い返すと、この言葉が重なります。ですから私も、「将来のめどが付くまでは、結果を出すまでは、日本には帰らない。帰っても意味がない」という気持ちで、6~7年の間、里帰りしなかったこともあります。結局、私はオーストラリアがすっかり気に入ってしまって、「日本に帰りたい」という気持ちはあまりなくなってきています。
34歳で結婚し、博士号を取得。そして、内科医としての一つの区切りを付け、10年間のキャリアの総決算をするという意味もあり、渡豪前に日本内科学会の総合内科専門医(当時は「内科専門医」)の資格を取得しました。「仮に夢破れたとき、日本で再就職するときに有利かな」という考えもありましたが…。
36歳で1人目の娘、38歳で2人目の娘を出産。39歳でオーストラリアの医師国家試験であるAustralia Medical Council(AMC)のmultiple choice question(MCQ)に合格し、40歳から病院で働き始めました。43歳で AMC clinical(オーストラリアで医師として働けるようになるための臨床実地試験)に合格、45歳でGPの道へ。47歳でようやくフェローになったということで、亀のようにスローな歩みでしたが、1歩ずつ目標に近づいていきました。私は要領が悪かったから何回もチャレンジしなければならなかったけれど、他のドクターならもっとスムーズに進めるかもしれません。