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「帰米中年」はこうして生まれた

2009/11/09
神保真人

 私は東京で生まれましたが、8~18歳まではアメリカで過ごしました。それから帰国子女としていったん日本に戻って医学教育と臨床研修を受けましたが、33歳のときに再び渡米しました。それが今から16年前ですから、既に人生の半分以上をアメリカで過ごしたことになります。2度目のアメリカは「渡米」というより「アメリカに舞い戻った」という気持ちを強く感じているため、あえて「帰米中年」という妙な造語を、このブログのタイトルに入れてしまいました。

 「バイリンガル(bilingual)」という英単語は日本でもおなじみですが、この語源は「2つの(bi)言語を操ること(lingual)」です。幼少時に異文化の地で暮らしたことでバイリンガルとなった場合は、程度の差はあれ、「バイカルチュラル(bicultural)」と言った方がよいでしょう。これは、2つの国の言葉や習慣を含めた文化(culture)を実際に経験し、学んだことを指します。

 1968年に初めてアメリカの土を踏んで以来、私は常に日本とアメリカという異なった2つの文化における自己の存在というものを意識してきました。このブログでは、そのような立場から、医療や普段の生活での日米間の相違について、日ごろ感じていることを中心につづりたいと思っています。第1回は、私がなぜ再びアメリカに移り、家庭医療に従事することになったのか、そのいきさつをお話ししましょう。

「このままじゃ、まずい」
 1978年にカリフォルニア州の高校を卒業した後、私はいったん日本に戻ることになりました。両親と2人の弟は、既にその2年前に帰国していました。電子顕微鏡メーカーの営業担当だった父が、本社に呼び戻されたためです。そのとき高校在学中だった私は、途中で学校を変わったら勉強も生活も中途半端になってしまうと考え、両親を説き伏せることに成功し、高校卒業までの長期ホームステイを快諾してくれた友人宅に身を寄せていました。

 ですから、そのままアメリカの大学に進学することも考えたのですが、「このままアメリカに残ったら、もう日本に戻ることはないかもしれない」という思いが頭をよぎり、日本の大学に進むことに決めました。現在では多くの大学に設けられている帰国子女入試枠は70年代当時には数少なかったものの、幸い慶應義塾大学の第1回帰国子女入試とタイミングが合ったため医学部を受験し、無事合格しました。

 帰国した私は、日本社会にできるだけ溶け込もうと、やや気負っていたものです。英文の医学書を読む以外は、同級生とさほど変わらない学生生活を送り、大して速くもないスキー部員として、練習だけは人一倍頑張っていました。しかし、いつしか勉強も二の次となり、「このままじゃ、まずい」と漠然とした不安を抱きつつも、あまり目標の定まらない生活を送っていました。そうした気持ちががらりと変わったのは、最終学年の夏、アメリカの病院で1か月間実習する機会に恵まれたときのこと――。

「人種のるつぼ」に入ってみたら
 アメリカで10年近く暮らした経験があった私も、アメリカの医学は世界の先端を走っている、という知識だけで、具体的なことは何も知りませんでした。そんな私が実習を始めて、まず度肝を抜かれたのは、指導医と研修医の臨床能力の高さです。

著者プロフィール

神保 真人

ミシガン大学家庭医療科准教授

8歳から18歳までアメリカで過ごす。帰国後、慶應義塾大学医学部に帰国子女入学者第1期生として入学。1985年同大学卒業後、同大学病院内科に入局。93年渡米。96年ペンシルバニア州トーマスジェファーソン大学病院にて、家庭医学レジデントプログラム(最終年度はチーフレジデント)を修了。その後3年間ノースカロライナの医療過疎地域にて臨床に従事し、99年に再びトーマス・ジェファーソン大学へ(家庭医療科助教授)。04年にミシガン大学からリクルートされ、現在に至る。

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