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医療と政治のかかわりを真剣に考えよう
飛岡内科医院(岡山市)副院長 飛岡 宏氏

2007/01/06

 2007年、年始。激変を続けている医療について考えるには、ここ数年の政治の動きを再確認し、時代の流れを把握しながら、今年1年の変化について熟慮する必要がある。

 2006年秋、小泉政権から安倍政権に変わったが、まず小泉政権が行った主な政策を、ネット辞書「wikipedia」の記述を基に振り返ることにする。詳細は、wikipediaの「小泉 純一郎」を参照されたい。

「小泉改革」をまず再点検する
 内政では、「ハンセン病訴訟で国側の責任を認め患者・遺族側と和解」「高齢化社会に対応するため年金法改正案を可決し、段階的に社会保険料を引き上げ」「厚生年金と共済年金加入者の医療費3割負担」「郵政民営化の前段階としての公社化」「道路関係四公団の民営化法案成立」など11項目がある。

 外交では、「訪朝し金正日総書記と正式会談、北朝鮮側が初めて拉致関与を認める。5人が日本へ帰国」「米国主導のイラク復興事業に対し自衛隊をイラクの非戦闘地域サマワへ派遣」など4項目。

 そして実績としては、「靖国神社への8月15日(終戦の日)参拝」「郵政民営化」「国債30兆円枠」「不良債権処理」「年金改革」「女系天皇を容認」が挙げられている。

 小泉政権以前の内閣は、与党の延長線上にあったが、小泉政権では内閣府が独立して「官邸主導」の政策決定を行うようになり、政権与党(自民党・公明党)と内閣府が一線を画すようになった。政策決定に関しては「骨太の方針」(経済財政運営と構造改革に関する基本方針)を経済財政諮問会議に諮問し、この答申を閣議で決定し、予算編成などに反映していく、という道筋を作った。

 戦後60年を過ぎた政治体制に対しては、「自民党をぶっ壊す!」をキャッチフレーズにメスを入れた。旧大蔵省(現財務省)が握っていた予算編成の主導権を、小泉総理を議長とする経済財政諮問会議に移して、官僚主導から内閣主導(政治主導)の国家運営に変えた。議員に定年制を設け、長老議員の影響力を排除した。行政府の構造改革・再編を行い、官僚支配もできるだけ排除し、首相官邸の意志を政治に反映しやすい状態を作った(「ホワイトハウス」のようである)。

 これら一連の動きは「小泉改革」と呼ばれ、国民の絶大な支持を得た。その結果、2006年夏の衆議院選挙で政権与党は圧勝し「小泉チルドレン」と呼ばれる、派閥に属さない自民党衆議院議員を多数輩出した。「政治家の世代交代を急激に進めた」という評価もできる。もちろん、自民党旧森派(現町村派:清和政策研究会)出身の小泉氏は首相を辞めた現在も無派閥である。そして、年末の恒例行事の様な「郵政造反組の復党問題」(政党交付金支給問題)がマスコミを賑わせたことも記憶に新しいことと思う。この結果、野党の出番はすっかりなくなった。

 小泉政権6年間に行われた改革で急激に進んだのは(私見)、
1.赤字体質の予算編成(プライマリーバランス)を改善する
2.デフレからの脱却(小泉景気)、株価の回復
3.郵政民営化に象徴される「官から民へ」の改革(小さな政府)
4.社会保障制度改革の基盤整備
である。

医療制度改革を易々受け入れた日医
 次に「骨太の方針」の内容を簡単に整理しよう。

 2001年の第1弾は、国債発行30兆円以下、不良債権処理の抜本的解決、郵政民営化の検討、5年間で530万人の雇用創出、の4項目だった。

 2002年は、2010年代初頭に国と地方を合わせた基礎的財政収支(プライマリーバランス)黒字化を目指す、だった。続く2003年は、「三位一体改革」で地方補助金を4兆円削減し一定割合を税源移譲、一般小売店での一部医薬品販売など規制改革の推進、の2点。

 2004年は、地方へ3兆円税源移譲、2005年に郵政民営化法案提出、社会保障制度見直し開始、デフレからの脱却を確実なものとする、というもの。2005年は、政府のODAの戦略的拡充、公務員の総人件費削減・定員の純減目標、市場化テストの本格的導入、の3項目。そして、最後の方針となった2006年は、2011年度における国・地方のプライマリーバランスの黒字化、であった。

 そして、小泉改革で残された課題は、
・憲法改正
・教育改革
・社会保障制度改革(年金制度・医療制度)
・地方行政改革(道州制の導入)
である。これらは、安倍内閣が継承している。

 小泉内閣では、政治主導で手を付けやすいところから改革に取り組んでいたので、結果を出しやすかった。しかし、残された問題は、多くの議論・説明・賛同を必要としている内容が多く、これを推し進める安倍内閣は大変である。そんな中で、医療制度改革は、大きな突破口が開いており、少しの努力で成果が得られると考えられる。既にレールが引かれている分野なのである。

 小泉内閣のもう一つの特徴は、側近の政治家を作らず、孤高に政治信念を掲げて、政治改革に臨んでいたことである。個人の能力には限界がある。米国大統領ですら、多数のシンクタンク(日本でいえば東大卒・京大卒の頭脳集団)を抱えている。だから、小泉元首相の後ろに、政治手腕に長け、政治を熟知した「小泉シンクタンク」がある、と容易に想像できる。逆に、個人の能力がどれだけ高くても、これほど大胆な政治改革を短時間に成し遂げることは無理だろう。

 小泉元首相は「院政は敷かない」と明言しているので、おそらく小泉シンクタンクは安倍政権に引き継がれるであろう。もちろん、小泉シンクタンクの存在自体、マスコミの表面にも出ていない話なので、単なる私の空想に過ぎないが…。そして、安倍内閣は独自色を出しながら、小泉政治とは異なった方向性を模索していることも理解している。しかし、である。

 小泉改革が省庁再編を終えて、本格的な制度改革に挑もうとしている時、日本医師会では、医師会員の総意として「安易に史上初のマイナス改訂を受け入れたこと」を理由に、反坪井体制として、植松体制が作り上げられた。これが良かったことなのかどうか?歴史的判断を行うには時期尚早ではあるが、その2年後には反植松体制として、唐澤体制が発足して現在に至っているのが現実である。

 日医が内紛を起こしている間(政治的空白期)に、重要な医療制度改革が進んだ。常識的に考えると、坪井体制がマイナス改訂を受け入れるに当たって、日医と厚生労働省の間で政治的駆け引き(密約)があったはずである。しかしその後、交渉相手が自滅し、密約がうやむやになったたので、厚労省にとっては、「ありがたい」の一言に尽きたであろう。

 日医の内部では厚労省との交渉を担当された理事たちが、最大限のパワーを使って、必死の攻防を行っていたことと思うが、末端の医師会員である私たちには、空白感が漂うばかりであった。2つに割れた日医の交渉力の切れ味は悪く、厚労省は相手の足下を見ながら、内閣府に後押しもされながら交渉したわけだ。厚労省が日ごろから思っている意見を唐突に出せる地盤ができていたのである。そんな政治的空白期を2回起こし、現在に至っている。

 私は2007年が、本当の意味で「医療が変わり始める年」と理解している。既に動き始めてしまった医療制度改革なので、誰も止めることはできない。だから「2006年、変化の時代に突入した」と主張してきた。この流れは、2010年に1つの節目を迎えて、次の方向に向かい出すと予想している。

連載の紹介

新春特別企画「医療放談2007」
2007年の医療界を独自の視点で斬る「医療放談2007」。執筆陣は、日経メディカル Onlineにゆかりのある方々です。ご意見・ご感想は、このブログにコメントを付ける形でお寄せください。皆様の意見をお聞きする「NMOアンケート」も適宜実施しますので、ぜひご回答ください。

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