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佐久病院の礎を築いた「明るい」女性たち

2021/12/29

 「佐久総合病院の礎を築いたのは女性たちだった」と言うと唐突に聞こえるだろうか。

 佐久病院は、戦時下の1944年1月に誕生した。翌年3月に東京大学医学部附属病院分院の外科から若月俊一先生が赴任してくる。「遅れた貧しい」農山村に降り立った若月先生は、患者の家族に手術を見せて「恐怖」を取り除いた。演劇で公衆衛生を説き、出張診療で「農民の中へ」入り、農村医療の近代化を成し遂げた、といった文脈で語られがちだ。

 もちろん間違ってはいないのだが、若月先生の医療運動を支えたのは、実は村の女性たちだったことが、このほど『腰のまがる話(Bent with the Years)』というGHQ(連合国最高司令官総司令部)民間情報教育局が1949年に制作した映画の複写を見てよくわかった。提供してくださったのは徳島県立文書館(徳島市)。

 戦後、日本を占領統治していたGHQは、敗戦国の民衆を「教育」する映画を盛んにつくっている。これらは、使用したNational Company製映写機の略から「ナトコ映画」と呼ばれた。『腰のまがる話』は、19分ほどのモノクロ映画で、信州の農家が舞台だ。

 ある夜、祖母が孫娘に、村のおばあさんたちの腰が曲がっているのは、「あっちにペコペコ、こっちにペコペコ」お辞儀ばかりして男に追従して生きているからだと語りかける。しまいには「病気にまでペコリ」。ここで孫娘が大病をした場面が追想シーンとして入る。

 高熱を出して横たわる孫娘。若い母親はわが子を医者に診せたい。しかし、父親は「どこにそんな金があるんだ。女房は亭主の言うようにやればいいんだ」と拒み、祈祷師を呼ぶ。部屋の壁に「病魔退散」の紙が貼られ、祈祷師は護摩を焚いて呪文を唱える。父親と家族、近所の人たちも祈祷師と一緒に呪文を唱えるが、とうとう孫娘は高熱のあまり、気を失う。若い母親は、わが子を背負うと一心不乱に駆け出した。向かった先は「佐久病院」の看板がかかった建物だ。

 生前、若月先生は、GHQの「民主化」教育の意図を知り、映画づくりに協力したと語っていた。若月先生がモデルらしき男性医師は、母親と、付き添って入院のサポートをする女性たちにこう語りかける。

 「こんな病気はね、初めに診てもらえばすぐに治るんだ。それにかえって金もかからなくて済むだろう。子どもの病気のことは男だけに任せておいてはダメ。女がやらなきゃ。それも女がみんな力を合わせてやらなゃ。いつも言うように、村の農業協同組合に診療所をつくりなさい。それまでは保健婦さんを置くんだ。みんなペコペコしないで……」

 やがて孫娘は全快し、女性たちが引くリヤカーに乗せられて帰っていく。村の女性たちは、農業協同組合の寄り合いを開き、「婦人部」をつくることを話し合う。ここで若い母親が言った。

 「あたし、いままで意気地なしで、女はみんな意気地なしだと思っとりました。だけど、こんどは女だって一緒になりゃ、力を合わせりゃ、意気地なしでなくなることが、わかりました。これからはけっして男の人に負けません」

 農協の男性職員は不機嫌な顔つきで聞いている。だが、目覚めた女性たちは意気軒高だ。「田植えや稲刈りのときの共同託児所や共同炊事所をやろう」「地域にまず保健婦さんを置いてほしい」と燃える。ペコペコしなくなった女性たちは、歳をとってももう腰は曲がらなくなる、と祖母は孫娘に教え諭す……。

著者プロフィール

色平哲郎(JA長野厚生連・佐久総合病院 地域医療部 地域ケア科医長)●いろひら てつろう氏。東大理科1類を中退し世界を放浪後、京大医学部入学。1998年から2008年まで南相木村国保直営診療所長。08年から現職。

連載の紹介

色平哲郎の「医のふるさと」
今の医療はどこかおかしい。そもそも医療とは何か? 医者とは何? 世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、地域医療を実践する異色の医者が、信州の奥山から「医の原点」を問いかけます。

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