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「レントゲン、生活までは、写せない」

2010/11/29

 日本の過疎地や途上国へ医療実習に行く医学生が、少しずつ増えてきた。
 多くの場合は、環境の違いに戸惑いながらも、それなりに見聞を広め、
 医療が「生活を支える一部分」であることを知って日常へと戻っていく。

 だが、中には感受性が強すぎるせいか、あるいは「事前期待度」が高すぎるせいか、
 環境の違いに打ちひしがれてしまう医学生もいる。
 あまりダメージが大きいようだと心配になる。
 この「もろさ」は医学部一直線で育ってきたプロセスで
 染みついたものだろうから、一朝一夕には変えられない。
 しかし、「使命感」で頭でっかちだと、もろさに危うさが加わる。
 そんな医学生に、ネパールの医療に貢献した故・岩村昇先生の
 苦労を知ってほしくなった。

 岩村先生は、「アジアのノーベル賞」といわれる「マグサイサイ賞」を
 受賞した公衆衛生医。1960年代初頭からネパールの山村に入り、診療を行った。
 そのころ、ネパールには結核がはびこっていた。

 岩村先生は日本で寄付金を集め、念願のレントゲン機器を携えて
 1966年に再びネパールに入った。
 機材にはディーゼル発電機がついており、電気のない山中でも撮影ができた。
 村人たちは、初めて見る「文明の利器」にいささか興奮気味で、
 1日に500人から600人もの人々が受診にきた。
 当然、次から次へと結核患者が見つかる。
 あまりに患者が増えすぎて病院では治療できず、
 3カ月分の薬を手渡して、自宅で治療に取り組んでもらった。

 だが、患者の9割は自覚症状が治まってくると薬を飲まなくなる。
 いつの間にか治療を中断し、危険な耐性菌を抱えた患者が増えていく。
 5年、10年経って、ネパールの結核対策は極めて難しくなった。

 よかれと思ってレントゲン機器を持ち込み、そしてそこで発見した病気に先進国の
 治療法を適用したばかりに、手ごわい耐性菌を抱えた患者が増加したのだった。
 岩村先生は自著『あなたの心の光をください―アジア医療・平和活動の半生』(佼成出版社)に、
 こう書いている。

著者プロフィール

色平哲郎(JA長野厚生連・佐久総合病院 地域医療部 地域ケア科医長)●いろひら てつろう氏。東大理科1類を中退し世界を放浪後、京大医学部入学。1998年から2008年まで南相木村国保直営診療所長。08年から現職。

連載の紹介

色平哲郎の「医のふるさと」
今の医療はどこかおかしい。そもそも医療とは何か? 医者とは何? 世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、地域医療を実践する異色の医者が、信州の奥山から「医の原点」を問いかけます。

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