先日、親友のスマナ・バルアWHO医務官の故郷、バングラデシュを十数年ぶりに訪ねた。
バングラデシュの人口は1億4000万人。
イスラム教徒が約9割を占め、1割弱がヒンドゥー教徒である。
その中で、バルア医師の家系は25代にわたって兄弟に必ず1人は出家僧を出し、
少数派の仏教を継承してきた。
叔父のヴィシュッダナンダ・マハテロ大僧正(1995年没)は、
マハートマ・ガンディーやマザー・テレサとも親交のあったベンガル仏教界の最高指導者。
世界宗教者平和会議の創設にも尽力している。
そのマハテロ師が1944年に創設した「アグラサーラ孤児院」に足を運んだ。
43年のベンガル飢饉で約300万人が餓死したその直後、
困難な状況下での設立であったと伺う。
バングラデシュ東部チッタゴン近郊、見渡す限り水田地帯が続く中に
忽然と孤児院とその付属施設の学校や寄宿舎が姿を現す。
敷地をひと回りするには十分以上かかる。
ここで数百人の子どもが暮らし、日々、成長している。
かなり大きな複合的教育施設だ。
と、いっても近代的な建造物を想像してはいけない。
鉄筋も入っているかどうかの低層建物が、高楼をもつ僧院を中心として、
あそこにひと塊、ここにひと塊といったあん配で配置されている。
今回の訪問の目的は、この複合教育施設の支援基金を仲間たちと立ち上げるに当たり、
財務報告を確認することにあった。
もともとアグラサーラ孤児院は、マハテロ師がベンガル飢饉で親を失った
子どもたちと道端で寝起きをしたことに始まる。
当時インド亜大陸は、対日戦争をたたかう大英帝国の統治下にあった。
その後、ここベンガル州東半は対英独立運動、
インド・パキスタンの分離、パキスタンからの分離独立戦争を経て現在に至る。
この間一貫して、僧侶たちが孤児院の運営を仕切ってきた。
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著者プロフィール
色平哲郎(JA長野厚生連・佐久総合病院 地域医療部 地域ケア科医長)●いろひら てつろう氏。東大理科1類を中退し世界を放浪後、京大医学部入学。1998年から2008年まで南相木村国保直営診療所長。08年から現職。

連載の紹介
色平哲郎の「医のふるさと」
今の医療はどこかおかしい。そもそも医療とは何か? 医者とは何? 世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、地域医療を実践する異色の医者が、信州の奥山から「医の原点」を問いかけます。
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