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「よくそれで医者になれましたね?」

2011/08/10

 医師としての職をいったんは捨て、病院経営を学ぼうと慶應ビジネススクールに入学した。この大学院の特徴は、「ケースディスカッション」と呼ばれる授業方法にある。これは、国内外の経営問題について書かれたケース(実例)の冊子を事前に読み、授業では教師のファシリテーション(議論のサポート)の下、学生が経営者の立場で意思決定するというスタイルだ。授業は、教師からのレクチャーはほとんどなく、学生たちの意見交換が中心となる。

 これが私にとっては荷が重かった。

 私はどちらかというと、人前に出てもあまり緊張する方ではないし、意見は主張する方だと思う。だが、いかんせんビジネスに関して話すには知識がなさすぎた。例えば、ある学生が「私が経営者としての立場なら、株価のボラティリティを回避するためにMBO(Management Buyout)をします」と話したとする。ビジネスを少しでもかじったことがあれば、MBOが「経営陣や事業部トップが株式の大半を入手して、実質的なオーナー経営者になること」を指すことくらいは分かる。だが、私は医師なので、ボラティリティ(価格変動)の意味も知らなければ、株式の何割を手に入れれば実質的な支配権を持てるのかも分からなかったのだ。おかげで、日本経済新聞、日本流通新聞、日本産業新聞、日本金融新聞と、経営用語集&辞書は手放せなかった。

 ケースの冊子は数十ページにも及ぶため、読むだけで2~3時間はかかる。毎日の授業は2~3コマあるため、全てのケースの予習だけでも最低5~6時間かかってしまうのだ。会計の勉強もつらかった。当初は商業高校の1年生が習う簿記3級をやると聞いていたので、「その程度なら」と高をくくっていたが、それを1カ月でマスターしろという。

勉強のしすぎで痔に…
 慶應ビジネススクールの進級条件も厳しい。通常の大学院なら「単位を落としたら来年取ればいい」と思う。だがここでは、留年はない。基礎科目を一つでも落としたら、即“退学”なのだ。実際に私が入学した年には、先輩5人が進級できずに退学になっている。不退転の決意で病院を辞めて来た以上は後がない。毎日、予習に7~8時間、復習に1~2時間を費やした。加えて、授業が毎日6~8時間ある。つまり、毎日15時間前後の勉強漬けなのである。

 入学初日から、医学部の卒業試験や医師国家試験よりも勉強する日々が続いた。長い間座りっぱなしでいたため、人生で初めて内痔核になった。ある意味、これも“刺激的”であったが、何よりも、社会人経験のあるビジネスパーソンと、連日にわたって真剣なディスカッションを重ねられたことが刺激的だった。

 慶應ビジネススクールの仲間たちは、普段は穏やかだが、経営に関するディスカッションでは容赦ない。
「その考え方では会社は潰れますよ、それでよく医者になれましたね」(28歳、商社ウーマン)
「ロジカルな考え方は苦手ですか?」(30代前半、金融マン)
「あなたの考え方って教科書だけの知識で面白くないですね、早くプレゼンを終えてください」(40代前半、銀行マン)
「医師はそんなチープな考え方なんですか? 普段から?」(29歳、コンサルタント)

 もちろん、教師側も手を抜かない。「そんな意思決定をして、何がうれしいの?」と突っ込み、30歳を優に超えたおっさんを黙らせる指導者ばかりだ。クラスで教師や同僚に認めてもらえるようになるには、まずは自ら勉強して知識をたたき込み、さらにステップアップを図って他人とは違った論理を組み立てるしかなかった。つまり、知識があるだけでは授業でコテンパンにされるため、前頭葉が沸騰するくらい頭をひねるしかなかった。

フランスで考えた起業のシナリオ
 2年間、ケースディスカッション漬けの大学院生活を送って身に付いたと思うのが、柔軟な思考方法だ。予習段階では「これで完璧だ」と思う回答を用意しても、仲間の学生たちの意見を聞くにつれて元の自分の回答も変わってくる。ダーウィンが「地球上で最も強い生物とは、変化対応力に優れた個体だ」と指摘した通り、最後まで頑なに自分の意見に固執するのではなく、常に合理的に正しいと思う意思決定を取り入れることこそ重要なのだと感じた。これこそが、経営者としてのキモなのではないかと思う。

著者プロフィール

裴 英洙(ハイズ(株)代表取締役社長)●はい えいしゅ氏。1972年生まれ。金沢大学大学院医学研究科修了。外科医・病理医として勤務後、MBAを取得し2009年に起業。医業経営コンサルタントの仕事の傍ら、再建先で臨床医として医療現場に携わる。

連載の紹介

裴 英洙の「今のままでいいんですか?」
医療機関の経営問題を解決しないと、医師が意欲を持って働けない—。そんな危機感からMBAを取得し、コンサルティング会社を設立した異色キャリアの医師。これまでの経営支援の経験から、病医院で見過ごされがちな問題やエピソードを語ります。
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