日経メディカルのロゴ画像

「安心・安全」はのろいの呪文

2015/04/24
尾藤誠司(東京医療センター)

 医療の現場で繰り返し呪文のように言われる「安心・安全」ですが、あれ「呪文のように」というよりはまさしく医療者の思考停止を促す「のろいの呪文」だと思っています。

「安心・安全」なわけがない
 少し考えれば分かることですが、医療現場は構造的に「不安で危険」なところです。まず、患者さんは不安だからこそ病院や診療所にやってくるのです。そして、その不安の元となっているのは「自分の身の危険」なのです。さらに、そこで医療者が患者に行う介入は、生身の人間に針を刺したり、得体の知れない薬液を体に注入することなのです。こんな状況を「安全」だと考え、「安心」して受け入れることができる人は、悟りを開いてしまっているような人か、医療というものを宗教のように信頼しきってしまっている人ぐらいなのではないでしょうか?

 病院や診療所に患者として存在している人は何かしらもともと危険な状態にあり、同時にそこで患者自身に行われる医療行為も何かしらの危険が付きまといます。そして、それらの危険は患者を当然のように不安にさせます。

 だからこそ医療者はより安全な環境を工夫し、結果として患者の不安を軽減できるような状況を作っていく義務があります。しかし、「安心・安全」のスローガンは、私にはなんだかその工夫や義務感と逆の方向を向いているような気がするのです。システムとしての「安心・安全」と叫べば叫ぶほど、目の前に実際に存在する患者への危険や、患者が持つ不安から目をそむけているのではないだろうか、という感覚です。

それは誰の安心?
 各種のモニターやベッドの四点柵など、いろいろな安全対策を患者に施して、「患者安全に対する全ての策は打ったので安心だ」と医療者は考えます。しかし、「もう安心ですね」と言っているときの安心は患者ではなく医療者自身の安心なのです。

 一方、体中に紐のようなものをいっぱいつけられて、動物園のおりのような柵に囲まれて安心できる人間がどれほどいるでしょうか? 転倒防止策で患者をがんじがらめにした上で、患者に対して「これで安心ですよ」と考えるのだとすれば、それは医療者側の安心を、患者に無理やり押し付けていることなのだと思います。

 私たちはよく患者さんに「大丈夫ですよ、安心してください」という言葉を投げかけます。しかし、「安心してください」という動詞の使い方はなんだか変です。誰かに「ボールを投げてください」といわれたとき、私はボールを投げることができますが、誰かに「安心してください」といわれて安心することはできません。自らの心をコントロールすることなどそんなに簡単にできるわけがありません。

 私は、「安心」とは結果だと考えます。十分な説明とか理解とか、医療者との相互信頼とか、決断の支援とか、もしものときへの対策とか、いろいろなものがそろったときに結果として患者に「安心」していただけることを目指すことが、「医療における安心」の目的なのだと思います。

 同じように、患者が医療者に不安を表出するとき、医療者が発する「大丈夫ですよ」という言葉も、患者にとって行き場をなくしてしまうキラーワードになり得ると私は考えます。「大丈夫ですよ」とか、「安心してくださいね」といわれてしまったとたん、患者は自分が持つ不安を医療者に対してぶつけることを拒否された気分になってしまうことを私は心配します。患者の不安を外に出さず、患者の中に押し込めることで、今の「安心の医療」は成り立っているのではないでしょうか?

連載の紹介

尾藤誠司の「ヒポクラテスによろしく」
医師のあり方を神に誓った「ヒポクラテスの誓い」。紀元前から今でも大切な規範として受け継がれていますが、現代日本の医療者にはそぐわない部分も多々あります。尾藤氏が、医師と患者の新しい関係、次代の医師像などについて提言します。

この記事を読んでいる人におすすめ