新年度に入り、政府は矢継ぎ早に新型インフルエンザ対策を打ち出している。プレパンデミックワクチンの事前接種、水際での侵入防止策強化、地域封じ込め対策などだ。早くから、わが国の新型対策の遅れを指摘し、問題解決を訴え続けてきた専門家はどう評価するのか。神奈川県警友会けいゆう病院小児科部長の菅谷憲夫氏(写真)は、「今の時期にプレパンデミックワクチンを接種するのは余りに時期尚早」と指摘。水際対策の強化、地域封じ込め策に至っては、「SARSやエボラを想定したものであり、新型インフルエンザ対策としては不適切」と批判する。抗インフルエンザ薬の十分な備蓄と迅速なワクチン生産体制の構築こそ、真っ先に取り組むべき対策である--。菅谷氏の主張はゆるぎない。

-- 政府は4月に入り、相次いで新型インフルエンザ対策案を打ち出しました。新型インフルエンザ発生初期の水際対策、国内で新型インフルエンザが発生した場合の地域封じ込め策、新型インフルエンザ発生時等における対処要領などです(内閣官房のホームページ)。これまでの動きをどのようにみていますか。

菅谷 日本の新型インフルエンザ対策は、インフルエンザ専門家の常識からは大分ずれてきています。このまま行くと、世界の常識から外れてしまうことを、国民やマスコミが認識しなくてはなりません。

-- 備蓄しているプレパンデミックワクチンを事前接種する計画も示されました。医療従事者、治安・ライフラインを維持する社会機能維持者の中から希望者を募り、約6000人に接種し、有効性と安全性を確かめるというものです。生後6カ月~20歳未満の約120人を対象とした臨床試験を行うことも打ち出されました。これらも世界から見るとずれているのでしょうか。

菅谷 6000人に接種して、さらに1000万人に事前に打つというのは、時期尚早で、誤った対策です。新聞報道によれば、日本が世界に先駆けて実施する対策などと書かれています。これは明らかに間違いで、世界は、日本以上に、ワクチンの開発も備蓄も進んでいます。ただ副作用が怖いからやらないだけなのです。特に米国は、失敗した経験があるのでとても慎重です。ただし、十分に注意した上での、少数例の小児の治験は必要と思います。

パンデミックは起こらず、訴訟だけが残った

-- 米国の失敗というのは、国民へのワクチン接種キャンペーンが空振りに終わり、その一方で副作用としてギラン・バレー症候群が多発してしまった件ですね。

菅谷 1976年2月に、米国ニュージャージー州の陸軍訓練基地フォート・ディックスで、兵士の間で豚型インフルエンザの集団発生が起こったのです。このウイルス(H1N1型)は、1918年に大流行し世界中で4000万人以上という死者を出したスペイン・インフルエンザウイルスと抗原性が類似していたため、スペイン・インフルエンザの再来になるのではと危惧されました。不幸にも18歳という若い兵士が死亡したこともあって、緊急対策の必要性を訴える声が主流となり、当時のフォード大統領は緊急予防接種計画を宣言しました。総ての米国国民に豚型インフルエンザワクチンの予防接種を受ける機会を提供し、それに必要なワクチンを早急に製造するとの対策を打ち出したのです。

-- 結局は、患者12人、死亡1人、推定感染者500人の集団発生で終わり、大流行には至らなかった。

菅谷 問題は副作用の出現だったのです。1976年10月から予防接種キャンペーンが開始されました。ところが11月末ぐらいから接種者の間で、ギラン・バレー症候群の発生が報告され始めたのです。このため緊急調査が行われることになり、その結果、接種者からのギラン・バレー症候群の発生は非接種者の約7倍であることが判明したのです。結局1976年12月には、フォード大統領が主導した接種キャンペーンは中止されました。

-- その後の調査で、接種者数が4565万人で、1976年10月1日から1977年1月31日の間のギラン・バレー症候群の発症者は全国で1098人に達し、うちワクチン接種者は532人だったことが報告されています(参考文献1)。

菅谷 パンデミックは起こらず、訴訟だけが残ったと揶揄されているものです。政治的判断に対する評価は色々あろうかと思いますが、翌年行われた大統領選挙でフォード大統領が落選したこともり、米国の政治の社会には、豚型インフルエンザ対策は失政の代名詞のような印象を残したのです。だから米国は特に、プレパンデミックワクチンの事前接種には慎重なのです。

-- 4000万人に接種して約500人という割合でギラン・バレー症候群が発生したわけですが、日本がこれから実施しようとしている6000人規模で、こうした副作用を把握することは可能でしょうか。

菅谷 難しいと思います。そもそもなぜ今の時期にプレパンデミックワクチンの事前接種なのか疑問です。

-- 備蓄しているワクチンの使用期限が切れるという背景もあるようです。どうせ廃棄するなら使ってみて効果を試したいという狙いがみえます。

菅谷 プレパンデミックワクチンは、つなぎとして重要なのです。厳密な意味での新型インフルエンザワクチン(パンデミックワクチン)は、実際にパンデミックが起こり病原ウイルスを特定してからでないと製造できないのです。しかも、製造には少なくとも6カ月が必要となる。そこで、パンデミックが起きてからパンデミックワクチンが供給されるまでの間や、パンデミックワクチンの製造量が十分量に達するまでの間に、基礎的な免疫をつけるために使用するのが、本来のプレパンデミックワクチンなのです。

-- 今はパンデミックが起こっていない。なのに、なぜプレパンデミックワクチンなのかが疑問なわけですね。

菅谷 プレパンデミックワクチンには、緊急避難的な意味合いがあります。緊急避難であれば、ある程度のリスクを犯してでも接種すべきでしょう。フェーズ4、つまり小規模な人から人の流行がおきた時に接種を開始すべきものです。でも今は決してその時期ではありません。今はフェーズ3です。H5N1では、人にも感染し死亡例が出ていますが、あくまでも特殊例で、流行ではありません。

 鳥インフルエンザであるH5N1ウイルスは、確かに新型インフルエンザに変異する可能性はあります。でもあくまでも新型インフルエンザの候補の一つでしかないことに留意すべきです。H7とかH9とか別のインフルエンザが出る可能性も十分にあるのです。今回のプレパンデミックワクチンは、鳥型H5N1インフルエンザウイルス由来の抗原、それも高い免疫原性が期待できる不活化全粒子型抗原とアルミニウムアジュバント(免疫増強薬の一種。ワクチン製造に幅広く実用化されているアジュバント)を組み合わせたものです。鳥型である点、全粒子型であること、さらにアジュバントが入っていることなどで、現行のインフルエンザワクチンとは全く異なったものです。どうしても副作用の懸念は残ります。

 私は、H5N1のプレパンデミックワクチンを備蓄しておくことにはもちろん賛成です。しかし、今は、接種開始の時期ではありません。H5N1が新型として流行するかどうかも科学的には分からないのが現状です。新型インフルエンザ出現の「可能性」だけで人に接種して、副作用が出た場合の責任はだれが取るのでしょうか。

抗インフルエンザ薬は1000万人分が不足

-- 先生はずっと一貫して「抗インフルエンザ薬の備蓄と迅速なワクチン生産体制の構築」を急ぐよう訴えてこられました。

菅谷 国民の多くは、新型インフルエンザを、エボラ出血熱とかSARSと混同しているため、新型インフルエンザは死亡率が高い恐ろしい病気と思っているようです。死亡率10~20%と指摘する人もいますが、私はそのようには考えていません。あのスペイン・インフルエンザでも、死亡率は1~2%未満だったのです。

 恐ろしい病気だから何とかして罹らないようにしようと考えるので、隔離や検疫などの強化策が出てくるのでしょうが、もともと罹患を絶対的に避けるべき疾患ではないのです。また避けられもしない。出現したら数年以内には全国民が罹患し発病する病気なのです。第1波で国民の25%が、第2波でさらに25%が罹患する。そして多くの人が新型インフルエンザに対して免疫を獲得すると、パンデミックが治まり国民の10%前後が懸かる毎年のインフルエンザ流行に落ち着いていくのです。この間に死亡率も低下していくと考えられているものなのです。

 全国民が必ず罹るのですから、発病した時に、抗インフルエンザ薬やワクチンを使って軽症化を図り、可能な限り入院や死亡を防ぐことが最も重要なのです。個々人が新たなインフルエンザに対する免疫を獲得していくようにすればいいのです。

-- 抗インフルエンザ薬の備蓄は、現状では大幅に不足すると指摘されています。

菅谷 日本の備蓄は、政府と地方自治体の合計で2100万治療コース、これに製薬会社の在庫分の400万治療コース合わせて2500万人分と備蓄となっています。でもこれでは、国民の19%をカバーするだけです。3200万人と予想される新型インフルエンザ流行第1波の患者の治療分には遠く及ばない。世界的にみても日本の備蓄がいかに遅れているかが分かります(図1)。流行当初から700万人分不足することになります(参考論文2)。流通在庫を考えれば1000万人分以上が不足するのです。

図1 世界のノイラミニダーゼ阻害薬(オセルタミビルとザナミビル)の備蓄状況(出典;インフルエンザ 8[4],51-56,2007) 備蓄が全人口の何%に当たるかを示している。2007年4月現在、日本は19.5%で世界の25位にすぎない。

-- 治療用として1000万人分が不足しているだけでなく、医療関係者への予防投与分はまったく考慮されていない点も問題だと。

菅谷 新型インフルエンザが出現すると、大量の患者が医療機関に押し寄せます。医師をはじめとする医療関係者は、何の保障もないままに対応せざるを得なくなるのです。それでは現場はもちません。少なくとも抗インフルエンザ薬の予防投与をして、彼らの家族も含めてですが、第一線で診療にあたる人々の安全を支援する措置をきちっとしない限り、患者の治療に当たるよう要求することはできないのです。医療関係者への予防投与用に、備蓄を急ぐべきです。理想的には、耐性の問題があるので、オセルタミビルだけでなく、ザナミビルも備蓄すべきです。

-- ワクチンについてはいかがですか。迅速化のために細胞培養法などの開発も進めるとしていますが。

菅谷 もちろん細胞培養法などの開発は進めるべきです。パンデミックが起きてからパンデミックワクチンが供給されるまでの時間を可能な限り短縮することは当然、目指すべきです。同時に、ワクチンの改良も考慮すべきです。最近、海外のメーカーが画期的なアジュバントを開発しました。このアジュバントを使用すると、抗原量が従来の4分の1ですみます。

-- 抗原量が従来の4分の1ですか。

菅谷 日本の新型用ワクチンは1ワクチン当たり15μgの抗原量を必要とします。海外の新しいワクチンは3.8μgでいいのです。この数字の意味するところは大きいのです。いいですか。パンデミックワクチンの製造迅速化でネックとなっているのは鶏卵です。この確保が難しい。ところが、たとえば1000万人分のワクチンを製造できる鶏卵を確保できたとすると、海外の新しいアジュバントの場合、従来ワクチンの4倍の量、4000万人分を製造できるのです。こうした新しい技術を取り入れていく努力も欠かせないのです。

-- 実際の医療面での対策が立ち遅れていることがよく理解できました。

菅谷 追加しますが、新型インフルエンザに関する国のガイドラインの中に盛り込まれている「発熱外来」も、ナンセンスです。

-- 発熱外来は、新型インフルエンザの患者とそれ以外の患者とを振り分けることで、両者の接触を最小限にするために検討されているものです。

菅谷 欧米では「発熱外来」の計画はありません。インフルエンザに罹った患者からは、発熱の前からインフルエンザウイルスが排出されています。どういうことかというと、発熱外来で振り分けてみたところで、すでに、家族や会社や学校など周囲への感染はいたるところで起こってしまっているということなのです。「発熱外来」はSARSならば意味がありますが、インフルエンザではむしろ有害です。そもそも患者数が多すぎて、物理的にも無理なことは、臨床家なら常識で分かると思います。

-- 国の対策もまだ修正がきくと思います。先生方にはもっと発言していってもらいたいと思います。