私が10歳のときに「スペインかぜ」は大流行しました。短い間に何人もの人々が死んでいくので、恐怖におののいていました--。 日本における「スペインかぜ」の目撃者調査に寄せられた貴重な情報を頼りに、102歳の現役教育学者で、しいのみ学園長である曻地三郎氏(写真)に当時の状況をうかがうことができた。「私も親兄弟も皆、寝込んだ。戸板にのせられ避病院(当時の隔離施設)へ運ばれていった患者さんも少なくなかった。気がつくと3日に1度は近隣で葬式が行われる状況になった」。鮮烈な記憶は想像を絶する情景を物語った。

 「スペインかぜ」について曻地氏は開口一番、「恐怖でした」と語った。スペイン・インフルエンザが世界中で猛威を振るったのは1918年(大正7年)から1919年(大正8年)にかけて。当時、曻地氏は広島県の西条町(現在の東広島市)に暮らしていた。10歳だった。

 「悪いかぜ」あるいは「いつもとは違うかぜ」が人々の間で騒がれ始めたのは、霜が降りはじめた秋ごろだったという。

 「学校では友人が何人も欠席していた。そのうちに私も罹ってしまった。兄弟も両親も寝込んだ。長男は比較的軽く済んだので、父親を介抱していた。母親は、自分も苦しいのに皆の面倒をみていた。氷嚢をつるし寝ているしかなかった。砂糖水を口に含ませてもらい、それから何度もあせをふき取って、そのたびに着替えさせてもらっていた」。

 いつもと違う症状は、激しい咳と熱だった。「喉にガラスが刺さったような痛みがあった。苦しかった」(曻地氏)。

 懸命な看病が功を奏したのだろう。三郎少年は寝込んでから4、5日ほどで回復した。しかし、久しぶりに行った学校で、友人が死んだことを知らされる。1クラス50人ぐらいのうち3分の1ほどが「悪いかぜ」で欠席。そのうち、少なくとも3人ぐらいは命を落としてしまった。にわかに信じられない三郎少年は、友人の家を訪ね安否を確認した。しかし「やっぱり死んでいた」(曻地氏)。

 異変は、自宅や学校だけではなかった。近隣でも、多くの知り合いが倒れていった。「患者さんは戸板にくくりつけられて避病院へ運ばれていった。子どもたちは、好奇心があるものだから、その後をついて行った。でもその子どもたちも、あとで寝込んでしまった」。

 当時、三郎少年に衝撃を与えた事態は、いつも往診に回っている医師が倒れてしまったことだ。医師も床に伏せるほど恐ろしい病気だ、と感じたのだった。

 「あっちでもこっちでも、本当にコロッと死んでしまった。それもボロボロ(次々)と」(曻地氏)。気づくと、葬儀があちこちで執り行われていた。曻地の記憶では、若い人、元気な人ほど死んだようだという。普通なら幼子やお年寄りが命を落とすことが少なくないが、スペイン・インフルエンザでは「若くて元気な人」も、だれかれなく死んだようだ。

 そのうち、「うつる病気」であることが広まるにつれ、人々の行動が変化していった。「葬式に参加することはなくなった。患者が出た家には近づかないように、親にきつく言われた。どうしてもその家の前を通らなければならないときは、鼻をつまんで走って通り過ぎるよう指示された」。

 やがて「悪いかぜ」は、「スペインかぜ」として語られ始めた。「大陸の方から風にのって悪いばい菌がやってきたと教えられた」(曻地氏)。

 「黒いマスク」が登場したのも、「うつる病気」であると言われ出してからのようだ。好奇心旺盛な三郎少年は、黒いマスクの中身が気になり、分解したことがあるという。口に当てる部分からみていくと、まず、いくつも穴の開いたセルロイドが隠れていた。その奥にはガーゼがあり、そのさらに奥に黄色い細長いガーゼが入っていた。「詳細は分からないが、ヨードチンキの類を染み込ませていたのだと思う。このマスクをしているとスペインかぜに罹らないと言われていたし、実際このマスクをしていると罹らなかったようだ」(曻地氏)。

 スペイン・インフルエンザの時のポスターが知られているが、その中には、黒いマスクをつけた市民が描かれ、「恐るべし『ハヤリカゼ』の『バイキン』! マスクをかけぬ 命しらず!」という標語が書かれている。曻地氏の黒いマスクと同じものがどうかは定かではないが、「うつる病気」という認識がマスク装着へと人々を駆り立てたのだろう。

 しかし、曻地氏がつけていた「黒いマスク」は、今の値段に置き換えると1枚3000円ほどになるという。ある程度のお金持ちでなければ、買えなかったことになる。

 「恐怖心が最大の予防策だった」。こう振り返る曻地氏は、1919年の2回目の大流行の際、1回目とは比べ物にならないほどの恐怖に襲われたという。「2回目は1回目より、もっと凶悪なばい菌が襲ってくると言われていた。1回目は助かったが、もうだめだと思った」。

 実際は、1回目に感染した人々は免疫を獲得していたこともあり、症状は軽くてすんだはず。だが、当時は原因がインフルエンザウイルスであったことも、ましてや免疫の仕組みも不明だった。三郎少年の恐怖は相当なものだったろうと推測する。

 ひるがえって現在は、新型インフルエンザに変わる可能性の高いターゲットも分かっており、かつ免疫の詳細も解明されている。パンデミック・ワクチンの開発も進んでいる。こうしたアドバンテージをむやみに浪費する前に、私たちが取り組むべきことは山ほどある。曻地氏の「恐怖心が最大の予防策」という言葉はとても印象的だった。新型インフルエンザに立ち向かう際に迷いが生じたときは、この言葉に立ち戻ってみたいと思う。


*「日本における『スペインかぜ』の目撃者調査」から。現在も調査は実施しています。1918年、1919年に大流行したスペイン・インフルエンザを直接的に経験された方、あるいは身近に経験した人がいた方、スペイン・インフルエンザについての記録をお持ちの方など、「スペインかぜ」の実際を語っていただける方でしたらどなたでも構いません。些細な情報でも構いません。ぜひ情報をお寄せください⇒投稿画面

◆プロフィール
曻地三郎(旧姓;山本三郎)氏
明治39年(1906年)8月16日生(102歳)
出生地:北海道釧路 6歳まで旭川で過ごす      
歴経:東広島市・寺西小学校岩国中学・広島師範・広島高師・広島文理科大学(心理学科)卒業。小学校・女学校・師範学校の教員を経て、福岡教育大学名誉教授、韓国大邱大学大学院長、中国長春大学・上海華東師範大学名誉教授、モスクワ市大心理・教育大学名誉教授等を歴任。医学博士(九州大)でもある。昭和29年、しいのみ学園を創立。昭和53年、社会福祉法人精神薄 弱児通園施設「しいのみ学園」理事長・園長。現在は、世界一周講演を続けている。三才児教育学会長でもある。
ブログ: http://blogs.yahoo.co.jp/shiinomi100