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緊急寄稿◎パンデミック下の学術情報のあり方とは?
プレプリントの隆盛は悪貨が良貨を駆逐するか

2020/05/11
榎木英介(病理専門医、一般社団法人 科学・政策と社会研究室代表理事)

えのきえいすけ氏○1995年東京大学理学部生物学科動物学専攻卒。博士課程中退後、2004年神戸大学医学部医学科卒。神戸大学病院、兵庫県赤穂市民病院、近畿大学病院を経て、2020年よりフリーランス病理医として独立。病理医として働く傍ら、若手研究者のキャリア問題や研究倫理に関する発信も行っている。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)及び同ウイルスが引き起こす感染症(COVID-19)が世界中で広がり続けている。日本でも緊急事態宣言が出され、医療者及び人々の生活に大きな影響を与えている。

 そんな中、SARS-CoV-2に関する論文が毎日のように発表されている。非常事態ということもあり、論文誌は迅速な査読を行い、オープンアクセスにすることで、このウイルスに相対する医療者や治療法、研究法を開発する研究者をサポートしている。まさに学術界が一丸となってこのウイルスに立ち向かおうとしている。

 論文誌のこうした方針は基本的に歓迎すべきだ。人類の今後の行く末に関わる緊急事態なのだから、商売云々と言っていられないわけだから。

 オープンアクセスに関しては、ここ数年間様々な議論があった。参加機関から資金を提供されている研究者に、出版する論文を全てオープンアクセスにすることを義務付ける「プランS」は、賛否様々な意見が飛び交いつつも次第に拡大している1)。2020年4月には、Natureなど多数の論文誌を出版するSpringer Nature社もプランS参加を表明していた2)。SARS-CoV-2のパンデミックはこうした状況の中に突如降ってきた事態で、オープンアクセスの「災害ユートピア」が誕生したようなものだ。

プレプリントサーバーの隆盛で悪化が良貨を駆逐?

 査読前論文をオープンアクセスで公開するプレプリントサーバーにも日々多くの論文が公開されている3)、4)

 プレプリントサーバーは、数学や物理の「arXiv(アーカイヴ)」が1991年から運営されてきた。医学・生物学ではその利用が遅れていたが、2013年に「BioRxiv(バイオアーカイヴ)」が誕生し、次第に利用する研究者が増えている。2019年6月には、BioRxivを運営しているコールドスプリンハーバー研究所とエール大学、医学系出版社であるBMJが、共同で医学論文のプレプリントサーバーmedRxivを立ち上げた5)

 そして医学におけるプレプリントサーバーの誕生を待ったかのようにCOVID-19のパンデミックがやってきた。medRxiv上には、SARS-CoV-2に関する多数の論文が公開されている。中には、日本のCOVID-19対策の根拠にもなった西浦博教授の論文もある6)

 こうした査読前論文の公開の利点は少なくない。

 まず、論文投稿後、即公開できるため、公開までの時間を短縮できる。公開までの時間を短縮できれば、内容によっては、治療に携わる医療者の役に立つこともあるだろう。近年査読者が論文の成果を盗んでしまうなど、査読に関するさまざまな問題が指摘されており、衆人環視の状態に論文が置かれることは、それらの問題を回避することにもつながる7)、8)

 だが同時に、プレプリントサーバーが査読前論文であることには注意が必要だ。誤りが発見されて訂正されたり、撤回されることもあるからだ。例えば、medRxivはプレプリントに

This article is a preprint and has not been peer-reviewed. It reports new medical research that has yet to be evaluated and so should not be used to guide clinical practice.

 と明記している。

 研究者ならば当然心得ている話だが、SARS-CoV-2に関してプレプリントが一般のメディアで報道される機会が増えることで、曲解や誤解を引き起こすことがある。

 査読を受けていればいいというものでもない。COVID-19に対して行われている臨床研究に、不適切で倫理的な問題があるものが少なくないという指摘もあるからだ9)。研究不正に関する情報サイトを運営し、問題がある論文を指摘するなど活発な活動をしている微生物学者のエリザベス・ビク氏は、COVID-19に関する論文の一つに、不適切な論文の引用、利益相反の隠蔽などがあったことを明らかにし、査読がずさんではないかと批判している10)

 科学的な厳密さとスピードのバランスをどうとるべきか。公開スピードを重視するあまり、ずさんな論文の山が積み上がれば、逆にCOVID-19の研究を阻害するという懸念は、真摯に受け止めるべきだろう。

今後は「プレプリントありき、オープンアクセスありき」の時代に

 医学研究におけるプレプリントサーバーの利用は歴史が浅く、オープンアクセスの時代もしばらくは混乱が続くだろう。本来ならば研究者と査読者の間で行われる議論が、メディアを通じて一般の人たちも巻き込みながら行われる、いわば壮大な公開査読実験のような状況には弊害も多い。

 とはいえ、この流れは止めることはできない。私が学術研究を始めた30年近く前は、論文は大学の図書館に行かなければ読むことができなかった。もう少し時代を遡れば、コピー機すらなかった。その時代からみれば、現在の学術論文へのアクセスめぐる状況には目を見張るものがある。もうあの時代へは戻れないだろう。同様に、プレプリントサーバーやオープンアクセスがない時代には戻れない。

 また、オープンアクセスの台頭は、研究の民主化をもたらす。大学の当該領域の研究者に独占的に囲い込まれていた学術情報に、インターネットにつながっていさえすれば誰でもアクセスできるからだ。

「専門家だからという理由で、利害当事者である科学者に情報を汲み出す作業をまかせきるのではなく、科学研究に共感を持ちながらも、これを突き放した中立的な視点から科学論文を読みとく読み手を、社会の側が確保することがぜひとも必要である。」

 これは、科学史家、米本昌平が22年前に述べた言葉だ11)。中立的な読み手がいることにより、研究がもたらす倫理面を含む問題を議論し、研究の暴走や独善を防ぐことができる。

 今回のパンデミックでは、米本が指摘する、科学論文を読み解く読み手が増えているように思う。例えば、本来は感染症に関する研究に縁遠い物理学者がCOVID-19に関する論文を読み、活発に情報を発信している12)。物理学者の「越境」に少なからぬ批判はあるが、一方で新たな議論の視点の提示にもつながっている。こうした「越境」はオープンアクセスがもたらしたものと言える。

 論文の質とスピードの兼ね合い、学術情報と社会との関わり方……。課題は多いが、課題を乗り越えた先に、あらたな学術情報のあり方が見えてくるだろう。

【参考文献】
1)「プランS」の要点
https://www.editage.jp/insights/plan-s-the-nuts-and-bolts
2)シュプリンガー・ネイチャーがプランSへの参加を表明:OA化へ前進
https://www.editage.jp/insights/springer-nature-commits-to-joining-plan-s-to-offer-open-access-routes
3)受理前の論文を公開するプレプリントサーバーとは
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jkg/70/2/70_83/_pdf
4)プレプリント・サーバーとは 論文はネットで事前公開の時代に
https://m-hub.jp/research-general/1951/116
5)医学分野のプレプリントサービス“medRxiv”の立ち上げが発表される
https://current.ndl.go.jp/node/38352
6)Closed environments facilitate secondary transmission of coronavirus disease 2019 (COVID-19)
https://www.medrxiv.org/content/10.1101/2020.02.28.20029272v1
7)学術界にも悪徳な審査委員が存在するのか?
https://wallaceediting.jp/blog/%E5%AD%A6%E8%A1%93%E7%95%8C%E3%81%AB%E3%82%82%E6%82%AA%E5%BE%B3%E3%81%AA%E5%AF%A9%E6%9F%BB%E5%A7%94%E5%93%A1%E3%81%8C%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F.html
8)佐藤 翔.情報の科学と技術. 2016;66巻3号:115-21
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jkg/66/3/66_115/_pdf
9) AJ London,et al. Science.2020;68:476-7
10)COVID-19, small RNAs, and conflicts of interest
https://scienceintegritydigest.com/2020/05/06/covid-19-small-rnas-and-conflicts-of-interest/
11)米本昌平『クローン羊の衝撃』(岩波書店、1998)
12)新型コロナ、「素人」の物理学者たちが声を上げる理由
https://ryomakom.myportfolio.com/corona-and-physicists

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