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特別企画●がん医療座談会 [07 Spring]
医療改革に現場から声を上げよう

2007/04/05
日経メディカルCancer Review

■法律の曖昧さが過剰な介入を招く

小野 少し局所的な話になりますが、例えば役所にはジョブ・ディスクリプション(職能定義)のようなものがありません。新薬の審査担当者もそうです。役人の業務は、辞令によって配属された部署で決まります。ただ自分が抗がん剤の審査を担当することは決まっても、その業務の内容を規定するものは何1つありません。これが日本のこれまでのやり方です。そうした中で自分が意思決定をして、何か言わなければならないとなると、どうしても腰が引けた言い方になるわけです。米食品医薬品局(FDA)の人間が勇気を持って積極的に文書で意見表明ができるのは、その担当官が責任を持つべき業務内容が薬事法などに事細かに書かれているからです。

土屋 小野先生が述べられたように、日本の法律はかなり曖昧だともいえます。例えば、がんセンターの病院長のジョブ・ディスクリプションは1行で「病院の事務を司る」、副院長は「病院の事務を整理する」だけです。それ以外は、院内規定もありません。ですから、後任者に申し送れと言われれば、1行申し送るだけです。

 米国であれば例え病院でも、各部署の業務内容が詳細に決められています。だれに報告義務があるか、上司がだれであるか、デューティはこれとこれ、それらの作業手順はこうこうというようにです。しかし、日本には一切ない。日本は法治国家と言いますが、私は「人治国家」だと思っています。いくらでも通達がまかり通るような社会だからです。薬の承認でも、法律があるようでないようなもので、局長の通達でいくらでも左右できます。憲法は50年でも60年でも守り通し、片仮名の法律のまま平気でいる国です。これは行政の人間にとっては大変やりやすくて、すき間をついて通達を出せば済むということになるのだと思います。

 不備な法律に頼るわけですから危険はさらに大きくなります。そこで、そのチェック機構としての専門家集団が必要です。それを医療界が担うとなれば、医療従事者の中心はやはり医者です。そう考えると、医者の意見が集約化されていないことが問題なのだと思います。我々もここでは発言していますが、日本の医者の代表としての声になっているかといえば、なっていません。言いっ放しでおしまいになっています。

■中央官庁に向けた情報発信が必要

小松 医療現場は大変な状況にあります。病院がかなり潰れそうですが、統廃合は簡単ではないし、医者がいない施設も続出するだろうといわれています。また東京近郊の救急医療もひどいことになっており、例えば千葉県の旭中央病院の救命救急センターでは、年間6万人も診療しています。その理由は、治療の責任の問われ方が厳し過ぎるので、小規模病院が怖がって受け入れないからです。また別の最後の砦になっている病院では、夕方5時から朝9時までの当直料が1万円しか出ない。医師が疲弊して診療維持が困難になっています。こうしたことを厚労省の役人は知っているが、だれも何もしない。厚労省の役人は公僕に徹しています。今まで攻撃され過ぎました。責任回避のために公僕としてイニシチアブをとろうとしません。

上 厚労省にも小野先生のような優秀な方もおられれば、そうでない人もいるでしょうから、やはり個人の力量によって変わるのかもしれませんね。

土屋 役人の肩を持つわけではないですが、情報がそれほど集まらない立場だと思います。我々は現場を駆けずり回っていますから、医療の危機を実感できますが、おそらく霞が関にいるとその実感が全くないのでしょう。本来であれば、我々が現場で集積したデータを、役所や政治家に上げるというルートがあってしかるべきなのですが、それもありません。また我々も医者の集団として、そうしたデータを集めているかといえば、集めていません。学会がばらばらで、個々のデータは多少あってもそれが体系化されていません。しかし我々はここで反省し、専門家集団として、医者全体は無理なら学会ごとにでも、窮状を厚労省に明示して訴えかけなければいけないし、国民の代表である政治家を動かす必要があると思います。これは医者としての使命です。倫理観を厳しく持ち、そうしたことをしっかり実行し、自律機能・自浄作用を持てば、医者が社会から尊敬されるようになると思います。

上 社会貢献できる人材の育成が大きな課題になりますね。

土屋 現在それが難しい理由は、中田先生のように病院経営から社会のことまで広く通じる人材を、系統立てて育てる道がないからだと思います。

 がんセンターは全部素人集団で経営しています。病院経営の学部を出た者もトレーニングを受けた者もいません。ですから、私は副院長になったときに一切手術をやめました。おそらく病院経営を任されている多くの医師たちは、とても時間が足りないという危機感を持っているのではないかと思います。こうした課題を次世代で変えるとすれば、まず病院経営を教えるカレッジを設置し、そこで専門家を育成する必要があります。

上 日本の医療の歴史の中で医師数は順調に増えていますが、研究施設や大学病院などの大規模病院の数は、大正年間、昭和20年、昭和50年といくつかの節目を経て、それ以降はあまり増えていません。この国の医療制度は医者を増やしてきて、30年置きにポジションが一気に空き、そこで若手を登用してきたのです。しかしここしばらくは、ポジションが増えそうにありません。そうした医療界を、中田先生はどのように見られていますか。

中田 私は卒後2年目で米国に行き、米国の臨床研修を受けました。そこで手術の供給体制など、日本とは全く異なる状況を知り、自分が何も知らないということを非常に感じました。米国では手術例の70%ぐらいが外来手術ですが、その理由を考えると、社会と経済、そして経営の問題に行き当たります。自分が受けてきた教育の中にはそうしたことがなかったので、医学以外も学ぶ必要があると考え、改めてビジネススクールに行きました。卒業して10年以上たちますが、最近変わってきたなと思うのは、ビジネススクールに興味を持つ医学部の学生やレジデントが時々いることです。社会的な知識も医者に必要だという認識が、少しずつでも生まれてきているように思います。そうした危機感を持っている若い人が出てきたことは、非常に明るいニュースだと私は考えています。

小松 フィリピンなどの東南アジアでは、病院長や副院長になるための訓練があります。ところが日本では、財務はもちろん、医療安全についての系統的なトレーニングも一切なしに病院長になるので、これは恐ろしく危険なことだと思いますね。

土屋 実際には、少しはあります。副院長になったときの研修は2日で、医療安全は半日です。これでは、体系づけられた教育ができません。半年制でも1年制でもいいですから、常設の学校を設置し、臨床ではなく、病院を経営する管理職になるための教育システムをつくる必要があります。米国ではMBA(経営学修士)を持った人が病院経営の後ろ楯になっています。

小松 教育はもちろん必要ですが、教養の部分が本当はもっと重要なのだと私は思っています。何かが起きたときに幅広く考えられる能力というのは、若いときにいろいろなことを経験して、想像力の幅をできるだけ広げ、学問の幅を広げておかないと身につかないと思います。

上 そういう意味では、インターネットによるおもしろい展開があります。私の属している厚生労働省のがん臨床研究班には、レジデントや大学生も参加しており、インターネットを使いながらフィールドワークをしています。ここでできた若者のグループが、新宿にコラボクリニックと呼ばれるクリニックをつくっています。東京藝術大学から東大文Iの学生まで集まっていて、いろいろな知識や技術を出し合って、通常は2000~3000万円かかるといわれる開業を150万円ぐらいで賄ったとの話です。これはとてもおもしろいOJT(職場内訓練)だと思っています。

土屋 若い人たちにとって、社会を見る機会は大変重要です。米国のスーパーエリートや同じ医者仲間でも、味があるなと思う人は、カレッジを終わってメディカルスクールへ入る間に仕事に就いたりして、社会を見てきた人が多いように思います。教養は教養学部で勉強するのではなく、むしろ社会勉強こそ教養そのものだろうと思います。

■学会が機能すれば均てん化論議も無用だった

土屋 学会の運営も感心しません。例えば胸部外科学会、呼吸器外科学会など非常に狭い分野で、しかも2日か3日の会議なのに、6つも7つも会場が分けられていることがあります。あるいは1000人や2000人も参加している学会なのに、小さな会場がたくさんあって、それぞれに数十人が集まってシンポジウムを開いているようなこともあります。全体で集まらないので、コンセンサスを1つも得られずに散会することもあるわけです。米国の胸部外科学会では、午前中は1会場です。午前中4時間の中で15分ずつセレクティブペーパーを全員一緒に聞きます。そして午後は成人の心臓や一般胸部外科、あるいは肺がんなどの分科会が開かれ、かなり専門的な演題になります。そうしたプログラムなので、あるテーマに関して、ここまではコンセンサス、ここからがコントロバーシャル、そして研究テーマという区分けがはっきりわかります。学会が終わると皆一斉に全米に散り、1年間競争するわけです。自分たちの症例なり実験で早く結論を出そうと努力します。それでまた進歩するわけです。しかも、学会で得られた結論がアクセプタブルであれば、みんなが共有する知識になります。我々が半年後に雑誌で見るより先に、彼らはそれを見て次の仕事にかかれるのです。

 日本のがん医療では均てん化がテーマとなっていますが、米国ではその必要がありません。学会に参加すれば均てん化されるからです。リーダーが参加して学会の成果を持ち帰り、自分の教室なりチームに伝えれば、あっという間に知識として均てん化されてしまいます。そうした学会活動の日米の違いも、我々はよく検討しなければならないと感じています。

上 学会は何をすべきところで、何ができないかという議論も必要ですが、私個人の意見では、学会というのは、臨床医なり研究者が情報交換をする場所で、政策提言などにはあまり向かないと思っています。ところが、行政が一番プライオリティの低い研究費をばらまいて、言うことを聞かせておいて、何とか班の班長みたいな人がクレジットを持つような構造になっている。こうした行政の手法は、組織を相当硬直化させているように思います。土屋先生には、がんセンターという制度の中で、そういうところにも思い切ってメスを入れていただきたいと思います。

小野 完全に壁の中にみんながいるわけです。特に役所は厳しいわけで、そこから一歩も外に出ません。終身雇用のような認識が今でも根強く残っていますから、役所内の論理で役所の仕事をして、一生を終えればいいという考え方が定着しているのだと思います。実は昨今の制度改革要求の中で、米国がなぜそういうところをあまり攻撃しないのかということを、時々考えます。それは、そこを突ついてばらばらに壊して米国型になると、日本が米国の強力なライバルになってしまうからだという気さえしています。役所のノウハウが日本の企業に本格的に活用されると困るので、あえて本気で突つこうとしていないのでしょう。例えば、PhRMAという米国の製薬工業協会の企業人たちが、日本の厚労省や医療環境を批判していますが、連邦政府は日本の官民を交流させて、ディスカッションを起こしたほうが日本がいい国になるはずだとは提案しません。日本は外圧があると大体その方向にいきますから、言わない背景には深謀術策があると推測しています。

土屋 偉い人の天下りや偉い人の汚職のために、下のほうが苦労しているのが今の状況だと思います。一時、こういう席で業者の人とコーヒーも飲んではいけないなどというお達しがありました。弁当も食べてはいけない。それなら自分で払えばいいだろうと言うと、それもだめだとなる。しかし、日本全体の医療を考えれば、交流があったほうがいいわけで、それなりのルールをつくればよいわけです。お金もオープンにすることが大事なので、お金を使ってはいけないという話ではありません。どこか本末転倒のところがあって、みんながんじがらめにされて動けなくなっているという感じがします。

小松 官僚に対する攻撃がひど過ぎます。このままだと官僚のなり手がなくなりますね。

中田 そうなると、いい人材が集まらなくなります。

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