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「赤字病院と赤字病院を統合して黒字へ」。困難なミッションを達成し、地域中核病院の新しい形を創る

2010/06/09
枚方公済病院院長 田中一成氏

――卒業して内科を志望されたとのことですが、その頃は、卒業生が自分たちで進路を決めていましたね。そのことで、診療科に研修医がいない、少ないなどの“偏り”はなかったのでしょうか。

田中 当時、京大の内科は人気があって、医局に入るのに試験を受けましたが、希望する人が少ない科では、教授が学生に電話をかけて誘っていました。教授から直々に電話があると、学生は感激して、すぐにその医局に入ったものです。だから、診療科で医師が足りないということは少なかったのです。

――学生も、“意気に感じて入局する”ということがあったのですね。先生が内科を選んだ理由は何だったのですか。

田中 人に自慢できるような話はありませんが、僕はもともと小児科の医者になりたかったのです。病気がちな子どもでしたから、始終、いろいろな科のお医者さんにかかっていたのですが、東大医学部出身のある先生だけが、診断と治療が的確なだけでなく、幼稚園児の僕を1人前の患者として扱ってくれるように感じたのです。その時の先生が、僕の周りで一番のインテリで、子供心に尊敬していました。

それに加えて、親戚に加藤時次郎という医者がいたことも影響しています。加藤時次郎は金持ちで、自宅も大きな洋館。子供の頃、そこに行く度にプレゼントが待っていました。小学1年の時、貰ったボウリングセットの遊び方が分からなかったことを覚えています。加藤時次郎という人は興味深く、面白い人で、大逆事件で処刑された社会主義者の幸徳秋水が発行していた『平民新聞』の発行資金を提供していたんです。

その他にも食堂経営で得た収益で、チェーン・ホスピタルを運営しており、慈善事業のようなこともやっていたようです。

今では考えられないことですが、研修医時代、僕の指導医が何かの理由で病院を休んで、僕が1人で先天性心疾患の新生児の理学所見を診なければならなくなりました。泣くとチアノーゼが出現して、当時の医療水準では救命できない患児だったので、僕は診察するのがとても怖かった。京都大学に入ってから、実は小児科医をやろうと思っていたのですが、そのときの恐怖感がずっと残っていて、“言葉の通じない子供を患者とする医者は、僕には務まらない”と悟って、内科志望に変えたのです。

――留学されたバンダビルト大学での研究は、日本での研究と比べていかがでしたか。

田中 留学する前に京大の中西重忠先生のところで、3~4カ月、遺伝子の勉強をさせてもらったのですが、分子生物学に関しては、その経験からすると、京大をはじめ日本の研究レベルの方が高いと感じました。当時、すでに中西先生は「レニン」研究では、世界のトップを走っていましたから、当然なのかもしれませんが、稲上先生も日本ではまだ知られていなかった「心房性Na利尿ホルモン」の研究で世界の先陣争いをしていました。また、バンダビルト大学で隣の研究室にいたコーエン博士は、「EGF」の研究では名前の知られた学者で、その後この研究により、ノーベル医学賞を受賞しました。こうした環境に置かれたことで、当時、最先端の研究に触れることが出来ました。

留学から帰ってから、今度は浜松医大の第2内科に派遣され、そこで「心房性Na利尿ホルモン」の研究を再開しました。浜松医大には8年在籍して、その後、京大第2内科に助教授として戻り、「腎臓疾患」の研究を始めました。日本では、臨床の教室で研究する場合は、出身医局か、同じ医局出身の教授の教室で研究するのが一般的です。一方米国では、臨床医が基礎的な研究をすることは稀で、我々のような外国人や他学部の出身者が、基礎的な研究を行っています。

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