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「赤字病院と赤字病院を統合して黒字へ」。困難なミッションを達成し、地域中核病院の新しい形を創る

2010/06/09
枚方公済病院院長 田中一成氏

枚方公済病院院長 田中一成氏

医師としてのスタートは同じでも、その後の人生はさまざまである。枚方公済病院院長の田中一成氏は、学園紛争のさなかに医学部に入学。不安を抱えてのスタートだったが、さまざまな先輩医師、そして患者に出会いながら、医師として人間として成長してきた。
最後に赴任したのは、やがて統合される病院だったが、そこには思いもかけない難問が山積していた。しかし、田中氏は持ち前の明るさ、粘り強さで問題解決に奔走。見事に大役を果たし、生まれ変わった枚方公済病院院長として新たな夢に挑む。
(聞き手:日経BP BPnet編集プロデューサー 阪田英也 構成:21世紀医療フォーラム取材班 田野井真緒)

学園紛争で、1年半のブランクがあった医学生時代


――田中先生が京大医学部に入学された頃は、学園紛争で大変だった頃ですが、授業はまともに受けられたのですか。

田中 僕が大学に入ったのが、東大入試が中止になった1969年でした。入学した時には、上級生がスト権を確立して教室を封鎖しており、授業が受けられませんでした。いつまでも授業が再開されないので焦燥感は強かったですね。それで、もう1度東大を受験しようかと思う矢先に、授業が再開されてホッとしたのを覚えています。

ですから入学して半年は、全く勉強できませんでした。教養課程は2年ですが、僕の学年は1年半しか授業を受けていません。それだけならまだよいのですが、専門課程に進学後、また上級生がストを決行しました。そのために半年間は授業が受けられず、その後も散発的なストライキで学校が封鎖されたり、合わせると1年半くらいは授業を受けることができませんでした。1年半のブランクは大きいですね。一番大きかったのは、まともに解剖実習ができなかったことでした。

――そのような状況下で、医師国家試験は大丈夫だったのですか。

田中 実は僕らの学年は、試験に強いんです。入学した時の、僕らの最低合格ラインが前年の最高点を上回ったことが当時話題になりましたから。しかし、これは必ずしも優秀だったのではなくて、受験テクニックに長けていたのと、紛争の影響で、例年に比較して数学がやさしかったためなんです。(笑)
だから国試になると、みんな燃えて、楽に合格しました。ECFMGに合格した人も多かったと思います。

卒業して、すぐに内科に行こうと決めていたのですが、当時は国試に合格しても、医師免許が発行されるまで時間がかかりました。そのため5月に医師免許が発行されたので、6月から第1内科(血液、消化器)、第2内科(内分泌、免疫)、第3内科(循環器)を、それぞれ4カ月ずつ回り、内科の一通りを経験しました。

それから第2内科の医局員になりましたが、当時は京大の医局が崩壊しており、研修医は関連病院の名前も分からない状況でした。そこで、自分で静岡県立病院の内科部長に電話して面接を受け、医局から静岡県立病院への派遣という形で、3年間過ごしました。その後、第2内科に入局し、大学院に4年通ってから、テネシー州のナッシュビル市にあるバンダビルト大学に、1983年から85年までの約2年間、留学しました。日本人にはあまりなじみのない大学ですが、医学部と工学部が優秀です。そこで内分泌と高血圧の大家だった稲上正先生が教授をされていたので、稲上先生のところで2年間、「レニンと心房性Na利尿ホルモン」の研究をしました。

あの頃を思い返すと、休みの日や寝ている間は、仕事を忘れられて楽しかったですね。試験管とネズミだけを相手にしていれば、患者さんを診ないで済んだのですから。患者さんの生命に関わる仕事には、やはり重圧を感じます。患者さんを診療すると、責任があるからどうしてもストレスが溜まります。実験なら失敗してもやりなおせばいいけれど、臨床での失敗は許されませんから。

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