日経メディカルのロゴ画像

専門医には研究の実績を義務づけることが必要。医師をランク付けして経済的なインセンティブを

2009/06/25
内閣府総合科学技術会議議員 本庶 佑 氏

米国で自分独自のテーマを見つける

― それは京都大学からの派遣だったのでしょうか。

本庶 いえいえ、私は大学院を出たばかりで、京都大学には籍もなかった。大学紛争の余波で、まだ博士号も取っていませんでした。生化学に関する論文は書いていたので、それを送って、有給の客員研究員として雇ってもらいました。

― 博士号を取っていないのに、ポスドク(Post-Doctoral Fellow=博士研究員。一般には博士号取得後に短期契約で採用される大学、研究所等の研究員のこと)に採用されたわけですね。

本庶 当時の日本では、大学がお金を出して、研究者を米国に派遣するようなチャンスはほとんどありませんでした。そんな時代に、米国帰りの良い指導者に恵まれ、しかも自分の望み通り、世界でも最先端の研究ができる研究所に応募して採用されたのですから、非常に幸運でした。

カーネギー研究所では、当初はリボソームRNA遺伝子の発現制御について研究していましたが、やがて自分自身の「なぜ?」がはっきりと生まれてきた。自分にとって、本当に不思議だなと思うテーマを見つけたのです。それが「抗体」でした。抗体というのは、非常に多くの抗原に反応して発現します。それはなぜなのかということが、研究のテーマでした。そこで、抗体の遺伝子的なメカニズムを研究するために、NIH(米国国立衛生研究所)の客員研究員になりました。

― 新しい、より発展的なテーマを見つけて、研究所をお移りになった。移る時は、どういう形だったのですか?

本庶 カーネギー研究所で私のボスだったドナルド・ブラウン博士が、こういう面白い研究があると教えてくれました。「じゃあ、その研究に取り組んでいるのはどこか」と、探したら、NIHで抗体遺伝子の研究をしているフィリップ・レーダー博士という人が見つかった。それで、ブラウン博士に紹介状を書いてもらって、レーダー博士に会いに行き、客員研究員として採用されたのです。

― そうしたキャリアの積み方は、やはりポスドクという制度がしっかりしていて、研究者に対する支援が手厚い米国だから、可能になったと言えるのでしょうか。

本庶 日本では当時、ポスドクのような制度はありませんでした。ですから、有給で研究を続けようとすると、研究室の助手などに雇ってもらうしかなかった。そういう有給のポストは数が限られているし、その中で自由に研究を進めるのは、なかなか大変でした。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
トップページトップインタビュー > トップインタビュー 新着一覧

トップインタビュー 新着一覧

この記事を読んでいる人におすすめ