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各科診療域のスペシャリスト・インタビュー
過酷な研修医時代と基礎研究への没頭が“いま”の自分をつくった
第4回 京都大学医学部 泌尿器科学教室教授 小川 修 氏

2009/12/22
京都大学医学部 泌尿器科学教室教授 小川修 氏

過酷な研修医時代と、基礎研究に没頭したことが“いま”の自分をつくる


――国試に合格して泌尿器科の医局に入ると、過酷な研修医生活が待っていた。

小川 僕の直接のオーベンの先生が、すごく厳しかった。それも理不尽に厳しい。その上、当時は僕ら研修医が全ての雑用をやっていました。朝6時半に来て、患者さんの採血をして、回診をして、手術に入って、何やかんやで1日の仕事が終わるのが夜の10時ぐらい。その後、自分の患者さんの次の日の点滴並べまでしないとだめ。家に帰ると、もう1時、2時。それで、翌日はまた6時半。土曜も日曜も、ほとんど休みなし。みんながそれに耐えていた。だから出ていくときには、「京大病院には二度と帰ってくるものか!」と思っていました。

でも、いま考えるとこれが大切な財産なんです。こんなしんどい状況を1年も我慢できたから、鍛えられ方が半端じゃない。これに比べれば、どんな苦しい状況もらくちんなんだと思える。その後、大阪の田附興風会北野病院に6年いましたが、泌尿器科の専門医として高度な知識や技術を身につけようと考え、32歳から36歳までの4年間、完全に臨床を離れて大学院で研究に没頭しました。

当時、京大に着任されたばかりの病理学の教授が“分子生物学を人体病理に応用する”というテーマで分子病理学の実験室をつくろうとされていました。実験室もなくてひどいところでしたが、苦しい状況には慣れています。3~4人の仲間と部屋掃除から始め、汚い古い機械を処分したり、参考に神戸の実験室を見に行ったり、京大の本庶先生や中西先生の教室を見に行ったりして勉強しました。


――そのときは、臨床をしているときとお給料は同じですか。

小川 給料どころか、逆に授業料を払わなきゃいかんのですよ。その時にはもう結婚して子供が2人いたので大変でした。よっぽど精神的に追い詰められていたのか、お金のことで家内ともめたこともありました。だから、京都市内の病院や大阪の病院まで行ったりして、アルバイトで食いつないでいました。月曜から土・日も含めて、研究というのは自分のペースでできるから、バイトのないときは全部、研究なんですよ。今は、臨床をやっているスタッフより、バイトしている大学院生の方がはるかに収入は多いという噂も聞きます。変な話ですけどね。

それと、「大学院に入ったら臨床を離れてしっかり研究をする」。これは泌尿器科教室の昔からの伝統なんです。今、大学院生が12人いますが、基本的には全員臨床からは離れて研究に専念しています。


――その時の研究テーマは。

小川 「腎臓がんのがん抑制遺伝子の同定」です。当時は、がん遺伝子やがん抑制遺伝子の遺伝子ハンティングの最盛期でしたので、私もその中に入りました。普通は大学院4年間のあとに留学するので、留学するとだいたい6年間臨床を離れなくてはならないのですが、僕は、2年間で学位論文ができて、留学OKといわれたので、大学院と留学が2年間重なったことで得をしました。留学先はニュージーランド。別にラグビーが好きだからというわけでは無かったのですが、これも縁なんでしょうね。オタゴ大学生化学教室で、ほんとうに“夢のような楽しい!”留学をしました。子供の腎臓がん(ウィルムス腫瘍)のがん抑制遺伝子の研究をしている研究室で、向こうのポスドクという形で採ってもらったので、生活費の心配はありませんでした。この留学体験では、時間的な自由が全部自分に任されているという点がすごく大きい。論理的に系統立てて考えるとか、自分を見直す時間があったこと、それと英文論文をたくさん読む機会がありました。おかげで論文の作法みたいなものは習得できたし、自分でも多くの論文を書けたという収穫がありました。また、家族との絆を深めるという意味でも大切な2年間でしたね。たぶん今までの僕の人生の中で一番楽しかった2年間だと思いますよ。じつは、ニュージーランドへの留学の話がある前に、米国NIHへの留学が決まっていたんです。家族と渡米の準備をしていたら、1991年の湾岸戦争が起こりました。それで米国の研究費が削られて、米国留学が流れたんです。本当に人生というのはわからないものです。


――ニュージーランドから帰ってきてからは。

小川 京都大学泌尿器科に帰ってきて助手を3年間つとめましたが、自分の将来については具体的に考えていませんでした。すると突然、吉田修教授に「秋田へ助教授で着任するように」と。これが僕の人生の大きな転機になったわけです。「これはもうアカデミックで生きるしかない」「どこかの教授になるしかない」ということだと覚悟を決めましたし、他流試合で自分がどこまで出来るかやってみたいという気持ちもありました。家内も賛成してくれたので、秋田に骨を埋める覚悟で、家を売って、家族もつれて秋田へ向かいました。着任先の秋田の教授が5年後に退官というタイミングだったのです。

結局、秋田には2年しかいませんでした。「もうちょっと秋田で頑張ります」と言っていたら、あるときメールが来て、「京都大学の教授候補にピックアップされたからぜひ応募してくれ」と。まだ40歳でしたので、決して選考されないだろうと思っていました。秋田の助教授室で当直をしていたら突然教授会から「専任された」と電話がかかってきました。教授選考の日程すら知らなかったんです。うれしいなどというより、大役を引き受けたことに「どうしよう」という不安な気持ちのほうが強かったですね。

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