――そういう先端的な医療に夢を感じる医学生、研修医が全国から集まって来る大学になれば、理想的ですね。
若林 すでに少しずつですが、その徴候が出てきています。僕が岩手医大に来る以前は、年間に80人卒業しても、大学院に残るのは4人程度だったんです。4人プラス学外から1人で、5人くらいが教室に入ってきた。これでも、新臨床研修制度が導入された後の大学病院としては、かなりいいほうなんですけどね。その5人が、2008年には7人になり、今年2009年には10人になりました。岩手医大の卒業生以外にも、北大、東北大、福島県立医大などからも、教室に入って来ます。新臨床研修制度が始まって6年目になって、大学に若い人が戻ってきつつあるのです。

――先生は、旧来の医局のあり方には否定的で、オープンな教室運営のために努力されていると聞いていますが。
若林 僕はだいたい医局という言葉自体が好きではないので、現在の岩手医大では、医局と言わずに、教室という言葉を使うようにしています。以前の医局には、ネガティブな側面が大きかった。
例えば、地域の病院から医局に、毎年、盆暮れのお礼を持ってくるという慣例があったようです。現場の公立病院は慢性的に医師が足りない。どうしても医師が欲しいから、お礼を医局に持ってきて、今年もよろしくお願いしますとやっていた。だって、現場に医師がいないと、医療費が請求できませんからね。困り果てた現場では、医師がいないのに、名義だけを借りるようなことまでやっていたんですね。
また、医局のネガティブな側面の最たるものが、透明性のない組織運営でした。組織の長の実力が問われない一番簡単な方法は、情報を自分のところで囲い込んで、外に出さないことです。情報が流れないから、下の連中は戦々恐々として、恐怖政治になる。結局、教授にものすごい権力が集中する。その結果、若い人を労働力としてしか見ず、ろくな報酬も支払わない。おいしいところは全部、上が取ってしまうというのが、大学の医局制度だった。
だから僕は、何より自分の教室の透明性を上げたかったんです。そのために、最初に、こういう方向で行くんだという、わかりやすいビジョンを示しました。次に、多くの仕事をスタッフに任せていく。やりたいことを、どうぞやってください、僕はそのサポートをしますよ、と。そういうオープンな教室運営の中から、ファミリーの和を育てていく。同じ医療チームなんだという一体感を醸成するのです。さらに、生産性を上げるシステム作りが、ファミリーの要になる。具体的には、患者さんを増やそう、学会発表を増やそう、論文を増やそう、教室員を増やそうということです。で、常に情報を共有し、透明度を上げる努力をする。こういう基本方針を、僕は教授になった当初から掲げています。
――学会発表、論文数は増えていますか?
若林 ずいぶん増えましたよ。2005年には学会発表が123、論文発表が54でしたが、2008年には学会発表が355、論文発表が66になっています。まあ論文はそれほど増えていませんが、学会発表がものすごく増えている。これには理由があって、若い先生たちの学会活動費用を、教室が全部、出すようにしたのです。年に何回分かを出すところはあるけれども、制限をせずに、何回でも出すのは、岩手医大外科くらいではないでしょうか。
なぜそんなことができるかというと、研究費の獲得努力をしているから。学会活動費は主に研究助成金から支払われますが、2007年の競争的研究費は830万円でした。さらに、2008年には、それが4000万円を超える位になりました。これを、臨床的activityに応じて、教室内のグループに配分し、その範囲内なら、いくらでも使えるようにしてあります。