――慶応病院に残るという選択肢は?
若林 もちろん、慶応の教授という可能性もありました。2年後の教授選の日程も決まっていましたしね。ただ、僕のボスの北島政樹先生は、上部消化管が専門なんです。僕は肝臓が専門だから、素直にいけば、北島政樹先生のご意向で上部消化管が専門の医師が先生の跡を継ぐだろうなと推測がつく。となると、慶応大医学部スキー部の僕の後輩で、2007年に実際に教授になった北川雄光が最有力候補になる。なぜなら、彼は慶応医学部の金時計(卒業時1番の成績)ですから、非常に優秀で業績ではかなわないと。僕は、かわいいスキー部の後輩が教授になって年上の先輩として慶大外科に残るわけにはいかないという気持ちが強かったんです。ですから、慶応の教授選の2年前に、岩手医大の教授選があるのを知って、じゃあ盛岡に出てみようと思ったんですね。
――教授になるというのは、大学病院の医師のキャリアの中で、非常に重要な意味を持っているわけですね。
若林 大学にいる医師が、一生、きちんとした形で大学に残りたければ、教授になるしかないんです。どこかの段階で、例えば45歳前後の人が教室の教授になったとする。その時は、45歳以上の准教授らは、外の病院に出るというのが暗黙のルールと思います。ましてや教授候補最有力者より4年年上の同じスキー部出身の僕が、母校の外科教室を良くしたい、活性化したいと思えば、率先して外に出るという選択も理解していただけるはずです。その場合、普通の市中病院で、外科医をやっていてもいいんだけれども、僕は何より肝移植をやりたかったんです。肝移植ができるところとなると、日本の現状では、大学病院しかない。じゃあ大学にいるしかない。大学にいるには、教授になるしかない。教授になるチャンスがあるのなら、日本中、どこの大学に行ってもいいじゃないかという発想になっていく。これは先に話した米国もそうでしたが、短期留学したドイツでも同じでした。キャリアアップのために、どんどん職場を動くことに、何の抵抗もない。そういう感覚を、僕は米国とドイツで学んでいますからね。

複数の先進医療、高度医療が認定され
北日本初の肥満手術もスタート
――それでは、大学病院の中でも、岩手医大を選んだのは?
若林 先ほどお話しした混成チームという環境もありましたが、私立大学だったことも大きいですね。自分の選択基準として、国立にはあまり行きたくなかったんです。国立は、手かせ、足かせがすごいですから、自分でやりたいことができるとは思えなかった。例えば、岩手医大の外科学教室の有給職の人数は、僕が来た時は18人でした。それが今年春には31人になりました。これはなぜかというと、外科の入院、外来を通じての稼働額が、約6億円、増えたからです。こういうダイナミックな運営ができるのが、私立の良いところですね。国立大学だったら、定数が決まっていますから、たぶんこれだけのスタッフを増やすのは難しかったでしょう。