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江戸の看護書『病家須知』が示す現代医療へのヒント(その1)

2009/03/07
医療コラムニスト 21世紀医療フォーラム取材班記者 油井富雄

 時は、江戸時代も後半にさしかかった天保3年(1832年)。日本初、いや世界初の看護指導書ができた。その名は『病家須知(びょうかすち)』。病人のいる家は、すべからく知っておくべし――という意味である。著者は平野重誠(1790~1867年)。ナイチンゲールが活躍する20年以上も前の話である。

 この書が完成した年の日本の医療の状況はといえば、4年前の文政11年(1928年)に、長崎で医学などを教授していたシーボルトが、帰国の際に国禁の日本地図を持ち出しが発覚したシーボルト事件が起こっている。鎖国の状況でありながらも、長崎の出島を通して、医学も含めた西洋文化が盛んに入ってきた時代であった。

 庶民に養生を説いた書としては、『養生訓』(貝原益軒著:1713年)が広く知られている。それと比べると知名度は低いが、内容を見ると、その具体性や養生の体系化、書物としての編集の完成度は、はるかに『病家須知』が上回っている。何より、その面白さ、実用性という点でも数段優れている。

作者・平野重誠は、江戸の町医者

 国立国会図書館に保管されている原本は、和綴じ本の全8巻(マイクロフェッシュで閲覧できる)だが、3年前に看護史研究会編(代表・坂本玄子氏)の翻訳文が出版(農文協刊・全3冊税込2万9千円)され、少しは知られるようになってきた。

 平野は、武家の生まれだが、当時の医学教育の最高峰・江戸医学館に学んだ。そのころの医家の生活は、どこかの大名家の侍医になり、その禄をはみながら日常の診療にあたるのが出世の道であり、それにより生活も安定した。しかし、平野は官職には就かず、町医者となって江戸日本橋で開業、庶民の診療にあたった。

第1巻の冒頭は、「およそ病気というものは、みな自分の不摂生や不注意が招く災いである」(本文引用は、農文協版・『病家須知』の現代語訳と原典を参考に筆者改編)との言葉で始まる。

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