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ISHスペシャルインタビュー
高血圧治診療の温故知新●尾前 照雄氏
「久山町研究」を世界的な疫学研究に

2006/09/06
浜野 栄夫=日経BP社医療局

昨年から久山町に住み、生活習慣病の研究を始めた尾前照雄氏。

 九州大学医学部第二内科といえば、米国の「Framingham Study」と並んで世界的に高く評価されている「久山町研究」で知られる。これは、1961年(昭和36年)に当時の勝木司馬之助教授が始めた大規模・長期疫学研究である。スタート当初からこの研究にかかわり、勝木教授の後をついでからもリーダーシップを発揮、数々の成果を世に出したのが尾前照雄氏だ。初めて日本が参加した降圧薬の大規模長期国際臨床試験である「PROGRESS」の要となったのも尾前氏。国立循環器病センター名誉総長で、現在は久山町に住んで生活習慣病研究の新たな展開を図る尾前氏に、久山町研究事始から現在までを振り返ってもらった(聞き手:浜野 栄夫=日経BP医療局)

――先生が入局されたころ(1951年九大内科入局)、高血圧患者さんに対する治療はどのように行われていたのですか?

尾前 入局して間もなく、私は腎臓病の患者さんを受け持ちました。腎臓病の多くは血圧が高いのですが、ほとんど打つ手がない。血液量を減らすために瀉血をするか、神経を休める鎮静剤を投与するぐらいでした。1952年ごろに交感神経節遮断薬が登場しましたが、注射のみで、起立性低血圧や排尿障害などの副作用もあり、入院患者にしか使えない。しかも血圧は一時的に下がるだけで、十分な治療とはいえませんでした。

 そもそも当時、臨床医の血圧への関心は高くありませんでした。「血圧が生命予後と関係が深い」と、血圧測定の意義を強調したのはシカゴの生命保険会社の医師ですが、血圧を測定する機会は生命保険の加入審査の時に行われることが多かったですね。あのころは、老人の場合は上が160mmHgぐらいあっても、血液循環の低下を補完しているのだから下げなくてもよいだろう、という考えがありましたし。

 高血圧患者の降圧薬治療の有効性が最初に認識されたのは悪性高血圧についてでした。一般の高血圧に対する効果が証明されたのは1960年代後半の米国退役軍人グループによるVeterans Administration Study(VA Study)です。それまでは手探りの治療だったのです。

――1957年に日本人の内科医としては初めて、高血圧研究のメッカである、Page博士の主宰する米国・クリーブランドクリニックの研究所に留学されましたね。

尾前 はじめは腎臓の研究をするつもりでした。腎静脈狭窄によって実験的ネフローゼを作る仕事でした。実験を始めて間もなく、4匹のネズミにネフローゼを作成することに成功しましたが、その後はなかなかうまく行かない。副血行路ができないように腎臓を膜で覆うなどのことをすると、みな高血圧になってしまう。そこで私は、腎性高血圧の実験的研究に方向転換しました。腎静脈血に放出されるレニン量をいろいろなタイプの腎性高血圧ネズミについて調べるという仕事です。

 3年後に帰国した私は、九大第二内科に「腎臓・血圧研究グループ」を作りました。しばらくたって当時の教授、勝木司馬之助先生から「高血圧と関係の深い脳卒中の仕事をしないか」と言われました。高血圧の合併症で最も重要なのは脳卒中でしたので、研究のエネルギーを脳卒中に向けることにしました。

―そこで「久山町研究」にかかわることになったのですね。

1959年、クリーブランドクリニック留学時代。Page博士の自宅でのパーティで。 中央がPage博士、後列左から増山善明氏(故人)、阿久津哲造氏(世界初の人工心臓の実験で知られる)、荒川規矩男氏(福岡大学名誉教授)、尾前夫人、尾前照雄氏、高木秀夫氏(故人)、金子好宏氏(横浜市立大学名誉教授)。

地域の実態調査から脳卒中の原因の究明へ

尾前 勝木先生が1961年から始めた大きな仕事ですね。当時、海外の学会に行くと「日本は脳出血による死亡が脳梗塞の12倍以上もあるが、なぜなのか。誤診ではないのか」などと指摘されていました。しかしこれに反論するデータがない。

 そのころは脳卒中で倒れたら、「絶対安静」の時代でした。その結果、自宅で死亡することが多く、大学病院など大病院での剖検の対象になることはあまりなかったのです。大病院の剖検データを集めた日本病理剖検輯報を眺めても回答になりません。

 それで、まず地域レベルで実態調査をすることが先決だ、しかも剖検で臨床症状と突き合わせて正確な病因、死因を突き止めることができれば最もよい。はじめから剖検を目的にしていたということではなく脳神経系の専門医がみて診断の精度を高めようということから「久山町研究」が始まったわけです。久山町は町長さんをはじめ健康管理に熱心だったし、人口移動が少なく、年齢、性別、職業など、どれも日本の平均値に近い。また当地の開業医全員(4人)も進んで協力してくれました。九大病院からの距離も遠くないことも利点でした。

 ただ、私たちは研究データの収集だけが目的ではなく、今で言う“病診連携”を大事にしました。患者さんの治療は地域の開業医の先生にお願いし、入院が必要だったり手に負えない患者さんの場合は、大学が協力するという約束を交わしていました。また「高血圧を追放する会」を作ったり、データを住民にフィードバックして健康指導や健康相談にも力をいれました。

 私が勝木先生の後を継いで第二内科の教授になったとき(1971年)、実はその前にこの研究にピンチが訪れたのです。

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