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ISHスペシャルインタビュー
高血圧診療の温故知新◆今井 潤氏
家庭血圧の世界基準を決めた大迫研究

2006/09/05
七宮 充=医学ライター

「次の課題は家庭血圧の降圧目標の設定」と抱負を語る今井氏。

 診察室で医師や看護師が測った随時血圧をもとに診断や治療を進める。これが長い間、高血圧の診療スタイルだった。そこに家庭血圧という新しい概念を導入し、パラダイムの変化を促したのは今井潤氏(東北大学臨床薬学教授)らのグループである。岩手県大迫町(現花巻市)で20年以上にわたって続けられている大迫研究のデータは、家庭血圧値の世界標準となり、JNC7やWHO/ISHのガイドラインにも採用されている。エポックを画した家庭血圧の研究はどのように進められ、成果を生み出してきたのか。今井氏にその物語を聞いた。(聞き手:七宮 充=医学ライター)

脳卒中患者を眼前にし予防医学へ

――まず、高血圧の診療や研究を目指そうとしたきっかけからお聞かせください。

今井 個人的な事情をいえば、小学校3年のとき母親を悪性高血圧で亡くしています。以来、ずっと高血圧のことが気持ちの中で尾を引いていました。とはいっても、医学部の学生時代に高血圧の専門家になろうと決めていたわけではありません。直接的なきっかけは、1971(昭和46)年に大学を卒業し、初期研修を秋田県本荘市(現由利本荘市)にある由利組合病院で受けたことです。当時、秋田県は脳卒中の多発地域で、診療していると脳卒中で倒れた患者が次々と運ばれてきました。しかも、その多くは40代、50代の働き盛りの方。まだレセルピンやアプレゾリン(血管拡張薬)ぐらいしかない時代で、脳卒中はもちろんのこと、重症高血圧さえ治療する手立てがありません。なすすべのないまま、患者がバタバタと亡くなっていく。誇張ではなく、本当にすさまじい状況でした。

 そのころ、由利組合病院は剖検率100%の施設として全国的にも有名で、患者が亡くなると、担当の研修医は皆、解剖させていただきました。私もずいぶん解剖しましたが、脳卒中患者の場合、圧倒的に脳出血が多かったですね。いうまでもなく脳出血の最大のリスクファクターは高血圧。これをコントロールしないと脳卒中は予防できないことを肌で感じました。

 治療も大事だが、それ以上に重要なのは脳卒中を起こさないようにすること。こうした予防医学への目を開いてくれたのは、当時、由利組合病院の院長だった和泉昇次郎先生と循環器科部長だった伊藤政志先生です。お二人とも早くから脳卒中の一次予防の必要性を強調され、減塩など生活習慣の改善運動に熱心に取り組んでおられました。その姿勢は私に強く刻印され、家庭血圧を測って脳卒中や心臓病の予防に生かそうという大迫研究の原点になっています。

――2年の初期研修を終えて大学(第二内科)に戻られたわけですね。

今井 はい。第二内科に戻ったときは高血圧をテーマにしようと心に決めていました。ただ高血圧といっても幅が広く、何をやろうか迷ったのですが、薬に関心がありましたので、第二薬理で循環薬理の研究を行なうことにしました。先ほど少し触れましたが、74年当時、降圧薬といえばレセルピンやアプレゾリンが主体で、サイアザイド(フルイトラン)がようやく普及しはじめたころです。しかし研究レベルではCa拮抗薬に注目が集まっており、第二薬理の教授だった平則夫先生はこの分野の第一人者でした。

 ご存じのようにCa拮抗薬はもともと狭心症治療薬として開発された薬です。しかし、冠血管を拡張するだけでなく、全身の動脈圧も低下させますから血圧も下がる。これを降圧薬として応用できないかと提案したのは平先生をはじめとする日本の研究者たちです。私も研究を進める中でCa拮抗薬の降圧効果には目を見張りましたし、その後、実際に悪性高血圧患者に投与し、劇的に血圧が下がることを経験しました。高血圧を薬剤でコントロールできると初めて実感したのはそのときです。結局、第二薬理には2年半ほど在籍し、Ca拮抗薬と血圧に関する博士論文をまとめ第二内科に戻りました。

――その後、1980年にオーストラリアのモナッシュ大学に留学されます。

今井 当時、オーストラリアは高血圧研究の一大中心地で、多くの優れたリサーチが行なわれていました。それに直接触れたいと思ったのです。テーマはやはり循環薬理で、主に血圧反射の研究に力を注ぎました。そして、この研究を通して血圧の動揺性とか日内変動に目が向くようになりました。家庭の事情で留学は1年半ほどで切り上げたのですが、帰国後、日内変動への関心はいっそう高まり、基礎的な実験と並行して24時間自由行動下血圧(ABP)の研究に取り組み始めました。

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