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ISHスペシャルインタビュー
高血圧診療の温故知新◆荒川 規矩男氏
世界で初めてヒト・アンジオテンシンを単離

荒川氏近影

 日本の高血圧研究・臨床において、荒川規矩男氏(福岡大学名誉教授、国際高血圧学会名誉会長)の存在は大きい。世界で初めてヒト・アンジジオテンシンの単離に成功した業績をはじめ、日本人初の国際高血圧学会会長を務め、WHO-ISHガイドライン1999を発表したこと、また運動療法の降圧効果を科学的なデータで初めて示したことなど、どれをとっても日本の高血圧研究に大きな足跡を残したと言える。そして今、未だ高血圧の最新医学の恩恵にあずかっていない人や降圧管理が不十分な一般人・実地医家に対して全国的な啓蒙活動を始めようとしている。荒川氏にこの50年を振り返ってもらった(聞き手:浜野 栄夫=日経BP医療局)。


クリーブランド留学から始まった

―この50年間を振り返って、日本の高血圧研究が本格的に始まった出発点は何だったのでしょうか?

荒川 第2次世界大戦で日本は壊滅的な打撃を受けて、医学研究も戦前戦後の10数年間を含めて鎖国同然に凍結されていました。戦後しばらくして細々と研究を再開しましたが、ほとんどが外国の物まねで、泉のように湧き出てくる米国医学をペリーの黒船襲来のような驚きをもって眺めているばかりでした。

 そこで、明治維新の志士よろしく、発信源の米国へと日本人研究者の留学が始まりました。高血圧分野でも、まず九州大学から尾前照男先生(国立循環器病センター名誉理事長、現・久山町C&Cヘルスセンター長)が1957年にクリーブランド・クリニック(オハイオ州)に留学されたのを皮切りに、東大から金子好宏先生(横浜市立大学名誉教授)、増山善明先生(故人)、京大から高木秀夫先生(故人)、それに私が次々と同じクリーブランドに渡ったのです。後に日本の「高血圧学者の第1世代」といわれる人たちです。これが日本の高血圧研究の出発点となったと私は思っています。

―なぜ、クリーブランドに日本人研究者が集結したのですか?

荒川 クリーブランドには、アンジオテンシンの発見者であり高血圧成因に関するモザイク説の提唱などで知られるPage先生や、イヌの腎動脈結紮による実験的高血圧モデルを作成したGoldblatt先生、アンジオテンシン系の全構造を一挙に解明したSkeggs先生ら、ノーベル賞候補とも噂された世界最高峰グループが割拠しており、高血圧研究のメッカだったからです。私もPage先生に留学申請書を送付したところ、すんなり受け入れられました。研究費が潤沢だったのですね。

―クリーブランドでの研究テーマは?

荒川 当時、Page先生から私に与えられたテーマは、ブタ・アンジオテンシンの新しい合成法でした。これは、直接指導を受けていたBumpus先生とともにシンプルで確実な合成法を確立しました。さらにこの方法で、多くのアンジオテンシン・アナログ(類似体)を合成し、その生物活性の中心部分を4つ見つけました。

 残念ながら私の留学時代の研究はここまでだったのですが、後にそのうちの2つ(フェニルアラリンとヒスチジン)にARB(アンジオテンシン受容体拮抗)作用と関係があることが分かり、現在隆盛を極めているARB薬の基礎研究として私の仕事が役立ったことを光栄に思っています。ただ、今思うと悔しいのは、ヒスチジンの誘導体にARB作用があることを日本人が突き止め、日本の製薬企業が実用化一歩手前までいきながら、外国企業に先を越されてしまったことですね。


ヒト・アンジオテンシン開発物語

―先生が世界に先駆けてヒト・アンジオテンシンの精製単離に成功したのは、留学を終えてからですね。

荒川 アンジオテンシンの研究に携わっていて、私には大きな疑問がひとつありました。それは、アンジオテンシンの構造解明や合成はすべてブタ、ウシ、ウマなどの動物からのもので、人間のデータは一つもなかったことです。人間の高血圧を研究するというのに、ヒトのアンジオテンシンが全く分かっていない。日本に帰ってチャンスがあれば、ぜひ挑戦したい、そう思っていました。

 ところが、1961年に帰国してみると、九大にポストはなく、関連病院に出向することになりました。研究に携われず、正直悩みました。そんなときに1964年、九大に循環器内科ができ、助教授として呼ばれました。これで研究が続けられると喜んだものです。

 しかし、研究費は年間わずか70万円でした。実質何にも使えません。そこで米国のNIH(National Institute of Health)にグラント(研究補助金)を申請しました。まもなく申請どおり「満額補助」の返答が来ました。当時で年間3000万円ほどだったでしょうか。しかもその上に事務経費として10%オンしてくれたのですから。米国という国の太っ腹にびっくりしました。

―お金はできたけれど、それからが大変だったとか。

荒川 そう。化学物質の精製方法はそのころカラムクロマトグラフィが普及していましたので問題はなかったのですが、肝心のヒトからの材料集めが大きな壁でした。Skeggsがウマのアンジオテンシンの全構造を解明したときに使ったウマの血液は3トンでした。これを人間で計算すると10トンの血液が必要になります。しかもレニンで活性をみるためにフレッシュなヒトの腎臓を200個以上入手しなければいけません。

 血液は血液銀行に保存してあった期限切れで輸血できなくなった血液に目をつけました。腎臓の方は九州でそんな数を集めるのは不可能です。それで東京の監察医務院に行って、事情を説明したところ、当時の吉村三郎院長が理解してくれまして、いただくことができました。東京は、1日に10体ぐらい変死体があるので、たちまち必要な数を入手でき、九州まで冷凍トラックで運びました。

 2年間かけてヒト・アンジオテンシンを精製単離し、人工合成にも成功しました。NIHのお金がなければできないことでした。途中経過は、「Nature」誌に発表していたこともあって、クリーブランドのPage先生からは「まだできないのか」と催促の手紙をもらっていました。で、1966年に単離に成功したとたん、「すぐに講演しに来てくれ」と招待状が届きました。その場は実は、Page先生の65歳の祝賀シンポジウムだったのです。

 講演が終わると、席にいた例のSkeggs先生が「Congratulations! You won」と握手を求めに来ました。聞くと、彼らのグループをはじめ、世界のそうそうたる研究者がヒト・アンジオテンシンを分離できないか、しのぎを削っていたといいうのです。そんなことを知っていたら、きっと私は尻ごみしていたでしょうね。

 さらに彼は、「Pageに礼を言え」と言う。怪訝に思っていたら、「君の研究にNIHのグラントが認められたのは、Page先生が積極的に推してくれたからだよ」って。感極まりました。

 そしてもう一つ、この場でエポックメーキングなことが起きたのです。

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