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薬理のコトバ
抗うつ薬と海馬
日経DI2013年5月号

2013/05/10

日経ドラッグインフォメーション 2013年5月号 No.187

講師:枝川 義邦
帝京平成大学薬学部教授。1969年東京都生まれ。98年東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了。博士(薬学)、薬剤師。07年に早稲田大学ビジネススクール修了。経営学修士(MBA)。名古屋大学、日本大学、早稲田大学を経て、12年4月より現職。専門はミクロ薬理学で、記憶や学習などに関わる神経ネットワーク活動の解明を目指す研究者。著書に『身近なクスリの効くしくみ』(技術評論社、2010)など。愛称はエディ。

 新年度が始まり1カ月たった。目に青葉がまぶしい時期だが、季節のすがすがしさの半面、新しい環境に乗り遅れてしまった方々の「五月病」、うつ症状が気になる頃でもある。そこで今回は抗うつ薬について、最近話題の新しいメカニズムを紹介しよう。

 抗うつ薬の主なターゲットはセロトニンだ。セロトニンは、腸管ではホルモンとして働くが、脳内では神経伝達物質として睡眠や食欲、気分などに関わる。抗うつ薬の歴史は偶然の発見から始まった。皆さんご存じのイミプラミン塩酸塩(商品名トフラニール)は、もともとは中枢作用を持つ抗ヒスタミン薬として1950年代に開発されたものだ。ところが治験の段階で抑うつ効果を示すことが分かり、抗うつ薬として臨床に供されたという経緯がある。

 イミプラミンにはモノアミントランスポーターの阻害作用があり、セロトニンなどの再取り込みを妨げて、シナプスのモノアミンの量を“多く見せる”よう働く。この作用機序に基づき、60年代には有名な「モノアミン仮説」が提唱される。うつ病の発症メカニズムとして、皆さんもきっと大学で習ったことがあると思う。

破れた「モノアミン仮説」

 モノアミン仮説とは、脳の神経細胞におけるセロトニンやノルアドレナリンの減少が、うつ病発症の素地を作るという説。情報伝達物質が少なくなると、それを受け取る側は少ない情報を効率よく取り込もうとして、受容体数を増やすアップレギュレーションを起こす。ここにストレスなどの負荷がかかると、通常よりも強い刺激となって伝わり、いわゆる「ストレス系」と呼ばれる下垂体-副腎皮質系が大きく動くことになる。そして、副腎皮質から放出されたストレス関連ホルモンが、脳の神経細胞に大きなダメージを与え、うつ状態が形成されるという図式だ。

 この仮説に倣った抗うつ薬が次々と開発され、うつ病に一定の効果を示したことから、仮説は認められていく。80年代後半に開発された選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)は、その集大成とも言うべき薬剤だ。今ではうつ病治療の第一選択薬としての地位を確固たるものとしている。

 ところが、SSRIの作用機序はモノアミン仮説だけでは説明できないことが、次第に明らかになってきた。

 SSRIは、服薬開始から効果が出始めるまで1~2週間、量を調節しながら投与した場合には2~4週間かかり、うつからの回復までおよそ6週間を要する。一方でSSRIによるセロトニン再取り込み阻害作用は、投与後直ちに起こる。なぜタイムラグが生じるのか、モノアミン仮説では説明がつかない。

 この謎は今もなお未解明ではあるが、解く鍵は、抗うつ薬が脳の海馬領域に及ぼす作用にある。

 海馬は、側頭葉内側部(耳の少し上の奥)に両側性にあるタツノオトシゴのような形の脳部位で、記憶や学習といった認知機能に関与する。ストレスに対して特に弱い部位としても知られる。確かに、うつ病では気分障害だけでなく記憶などの認知機能も障害を受ける。そして、うつ病と海馬との関連を調べる中で、SSRIなどの抗うつ薬が、海馬領域での「神経新生」をもたらすことが見いだされた。

海馬が抗うつ薬の主要な作用点か

 かつては、成体の脳では新しい神経細胞は生まれてこないというのが定説だった。だが、21世紀を迎える前後に、これを覆す報告が相次いだ。ヒトの成体脳でも、新しい神経細胞が生まれることが分かってきたのだ。そのスポットの一つが海馬領域。脳由来神経栄養因子(BDNF)などが多い領域だ。

 実は、うつ病の患者では海馬領域の萎縮が認められる。これは、副腎皮質からのストレス関連ホルモンにより、神経細胞死の増加に加えて、BDNF量の低下を介した神経新生の抑制が引き起こされるためと考えられている。このような患者に抗うつ薬を投与することで、神経新生が促進され、萎縮した海馬が回復するという図式を支持するデータが、次々と報告されている。

 これならば懸案のタイムラグに関する説明もつく。ラットにSSRIのフルオキセチン(日本では未発売)を反復投与した実験によると、海馬領域での神経新生が増加するのは投与開始からある程度の期間がたってから(2~4週からの慢性期)。これは臨床における治療効果の発現までの時間経過と酷似している。同様のデータは、最古の抗うつ薬イミプラミンや、選択的ノルアドレナリン再取り込み阻害薬のレボキセチン(日本では未発売)など、SSRI以外の抗うつ薬でも得られている。

 他にも、(1)遺伝子操作によりBDNF量を半減させた動物では神経新生の減少や海馬領域の体積減少が見られる、(2)X線照射により神経新生を阻害した動物では抗うつ薬の慢性期作用が表れない、(3)抗うつ薬を服用していた患者の脳では、服用していなかった患者よりも新生する神経細胞数が多い─など、神経新生が抗うつ薬の作用の柱となることを示唆する報告は枚挙にいとまがない。

 興味深いことに、薬物治療に抵抗性のうつ病に対して施される電気痙攣療法も、BDNF量を増加させて神経新生をもたらしていることが分かってきた。うつ病をとりまく脳内メカニズムが、神経新生を軸とした世界観で描き直されようとしているのだ。

 目に鮮やかな新緑のごとく、脳で新しく芽生える神経細胞が、五月病に悩む人々に元気とヤル気を吹き込んでくれることが期待される。

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