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薬理のコトバ
細胞死
日経DI2012年5月号

2012/05/10

日経ドラッグインフォメーション 2012年5月号 No.175

講師:枝川 義邦
1969年東京都生まれ。98年東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了。博士(薬学)、薬剤師。07年に早稲田大学ビジネススクール修了。経営学修士(MBA)。名古屋大学、日本大学、早稲田大学を経て、12年4月より帝京平成大学薬学部教授。専門はミクロ薬理学で、記憶や学習などに関わる神経ネットワーク活動の解明を目指す研究者。著書に『身近なクスリの効くしくみ』(技術評論社、2010)など。愛称はエディ。

 いろはにほへと ちりぬるを(色は匂へど 散りぬるを)。生あるものはいつかは終わりを迎える。細胞も例外ではない。

 その昔、死といえば「個体の死」を指すのみで、生物学の教科書には、細胞が死ぬことについての詳しい記述が一切なかった。生体を形づくる様々な要素の動きや機能が事細かく丁寧に記述されてはいたが、それがどのようにして終わりを迎えるのかには触れられずにいた。細胞にも死があること、そして個体の死と細胞の死が別ものだということが認識されたのは、ごく最近のことだ。

 「死」というと“終わり”をイメージさせる。しかし細胞死は、それが組織や臓器、はたまた個体を見据えた全体最適に寄与するのだという、積極的な見方がされるようになってきている。今回は、生体機能の全体最適性を支える細胞死について取り上げたい。

細胞、死して個体を生かす

 現在、細胞死には3種類のタイプが知られている。タイプ1がアポトーシス、タイプ2はオートファジーを伴う細胞死、そしてタイプ3がネクローシスだ。オートファジーとは自身のもつ細胞内蛋白質を分解するための仕組みで、正常な発生に重要とされる。また、アポトーシスにも、形態形成時に働く積極的な機能がある。細胞死と個体とは、いわば“ゆりかごに入る前から墓場まで”、つまり生まれる前から死ぬまでの間の長いお付き合いになるのだ。

 例えば、けがをしたときを考えてみよう。この場面では、主にネクローシスが起こる。皮膚の損傷や血行不良による壊死など、生体にとって予定外のことが原因で細胞死が起きるということは、細胞を傷害する危険が生体に入り込んでいて、生命がおびやかされていることを意味する。このような危険を排除するために、免疫細胞の活性化を促し、炎症反応を惹起するのがネクローシスの特徴だ。

 これに対しアポトーシスは、周囲に迷惑をかけることなく、個体を生かすために不要となった細胞を“静かに”除去するシステムだ。ネクローシスと違って炎症反応は生じない。

 死んだ細胞は、免疫細胞や近隣の細胞が貪食することで除去される。免疫系の貪食細胞が、個々の細胞死をアポトーシスかネクローシスかを見極めることで、炎症反応を引き起こすか否かを決めている。ネクローシス細胞を見つけると免疫細胞は活性化し、炎症反応や免疫反応を引き起こすが、アポトーシス細胞に対しては免疫細胞は活性化せず、むしろ抑制される。

死すべきときに死なないと…

 この細胞死、生体機能の一環としてプログラムされたものの場合は、適切な時期に細胞が死ぬことで個体全体の健全性が保たれる。個体の存続を優先した全体最適性は、実によくできたシステムだ。しかし、プログラムされていない細胞死では、死んだ細胞の場所と数によって、それが発病を導くことがある。

 例えば糖尿病だ。いまや世界中で爆発的な増加をみせているが、最近では、膵臓のβ細胞の量的な異常、つまり細胞死が、糖尿病の発症に強く関与すると認識されるようになっている。1型糖尿病では、一般にβ細胞に対する自己免疫機構の障害が起こってから数年で7割以上のβ細胞が破壊され、発症に至る。そして2型では、10年以上の長い年月を経てインスリン抵抗性が亢進し、同時にゆっくりとβ細胞が減少する。約半数のβ細胞が消失すると糖尿病の症状が明らかとなる。

 また、認知症も、脳での神経回路を担う細胞が死んで脱落することにより発症する。記憶の形成システムは絶妙なバランスの上に成り立っているが、神経細胞の死は、このバランスがわずかに崩れるだけで引き起こされる。以前触れたように、記憶形成時に活動する神経細胞のNMDA受容体が、過剰に活性化すると認知症を導くことになる。それまでは生体機能を支えていたメカニズムの一部が狂うことで、細胞死への引き金が引かれるのだ。

 一方、プログラムされた時期に細胞が死なないことで生じる不具合もある。その代表例が癌で、細胞が癌化すると、「細胞、死して個体を生かす」の原則に沿わない荒くれ者と化し、個体の存続を脅かすことになる。

細胞死を調節する薬剤の開発も

 このような細胞死にまつわる病態を治療する手段として、細胞死のメカニズムに着目した研究が、徐々に進み始めている。

 癌細胞の特徴は休むことなく増殖を続けることだが、このとき同時にアポトーシスを抑制する機構が活性化しているという。ならばこの抑制を外すことで、癌細胞に死すべき運命を思い出させることも可能ではないか─。その発想から、細胞死に関連する蛋白質を活性化する低分子化合物の探索が進められている。既に、癌細胞で不活化していることが多いp53蛋白質を活性化する化合物などが見つかっており、次世代の抗癌剤として期待が持たれている。

 また、以前この連載でも取り上げたメマンチン塩酸塩(商品名メマリー)には、神経細胞の死をくい止めることで認知症の進行を遅らせる効果がある。この薬はNMDA受容体への親和性があまり高くなく、受容体を“緩やかに”阻害することで、受容体の過剰な活性化を鎮める。つまり、認知症を導くような余分な活性化のみを取り除き、正常な記憶メカニズムを取り戻すという、実に都合のよい性質を持つのだ。糖尿病も根本的な原因はβ細胞の細胞死なので、これに着目した治療法の開発が進めば、いつかは根治を期待できるのではないだろうか。

 あさきゆめみし ゐひもせす(浅き夢見し 酔いもせず)。冒頭のいろは歌はこの句で終わる。常春を思わせる夢のような風景も、いつかは覚めるもの。だが、花は散るから美しい、とはよく言ったものだ。バラより美しい、と唄った方の“君”はどう変わったのでしたっけ?

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