あたしが6歳の時だった。
 6本のローソクの炎が2組、大型クルーザーのデッキの上で揺れていた。
「アイちゃん、ユウちゃん、誕生日おめでとう!」
 2月14日は、あたし達双子の誕生日。逗子サンセットマリーナから乗り込んだたくさんの人たちは、次々にあたしと兄を抱き上げたり、頬を寄せたりした。父と母は祝福を受けるあたし達を見て、笑っていた。
 豪華なクルーザー。招かれた裕福な人々。色とりどりの料理。
 バースデーソングが流れ、あたし達はローソクの火を消そうとスタンバイした。あたしは群がるカメラを意識して、思い切り息を吸った。その瞬間、目の前の炎が消えた。「あ~」と漏れるため息の中、
「カイト、何をするの! この子は!」
 いたずら好きそうな男の子の頭を、母親らしき人が叩いていた。笑いが起こる中、大声で泣くあたし。男の子の父親らしき人が、あたしの父と母に謝っていた。人生に余裕のある人々は寛大だ。優しい眼差しで、ちょっとしたハプニングを楽しんでいた。あたしは父と母に促され、もう一度ローソクの火を吹き消した。
男の子は母親に口をふさがれ、目を丸くして、あたしを見ていた。
 彼が着ていた子供用の青い救命胴衣には、文字が縫い込んであった。
『佐藤海斗』。

 それから10年も経たず、母の若年性アルツハイマー病の発症を機に、セレブ一家は破産寸前まで追い詰められ、家族崩壊。あたしの人生は暗転した。
 あの幸せな瞬間は、夢だったんじゃないの? 
 おとなになるにつれて、あの日が現実だったのかどうか、自信が持てなくなっていた。兄のユウや父は、決して過去を語らない。母は記憶がない。家族のアルバムはどこかへ消えた。あたしの妄想でないことを証明するものは何もなかった。
 そんな時、再び佐藤海斗と出会った。
 二度目に会ったのも、海の上。あたしが19歳で、彼は22歳。医科大学のヨット部の新入生体験イベントだった。
「この中で経験者はいるかな? 一度でも乗ったことある人?」
 海斗の問いかけに、あたしは小さく手を上げた。
「じゃあ、俺がスキッパーするから、やってみようか」
 いきなり、2人乗りの470級に乗せられた。10年ぶりの逗子の海は、春のいい風が吹いていた。風上に向かって走り出したあたしと海斗。でも、6歳の誕生日のことは聞かなかった。怖かったからだ。もし、彼が覚えていなかったら…。

「ウソでしょう! その話、ホント? アイちゃん!」
 あたしの話を波留が止めた。あたしと、同期の波留と菜津は年明けから、精神科を一緒にローテートしている。別世界のようにゆったりとした時間が流れる精神科病棟での一日が終わると、あたし達は病院内のカフェでしばらく話をして、元の世界に戻る準備をする。
 今日の話題の中心は、佐藤先輩。年明け、LINE電話に「会いたい」とかかってきたのだ。
「アイちゃん、いくら久しぶりに佐藤海斗から電話がかかってきたからって、その話、盛りすぎじゃない? ロマンチックすぎて、嘘っぽい」 
 波留は、カフェモカの泡の髭をつけて、さらにあたしに迫る。
「それに、大学の時は、海斗と付き合ってもいないんでしょ?」
 いつの間にか、「海斗」と呼び捨てだ。
「うん…。だって、先輩はすぐ部活引退したし、あたしもバイトで忙しくて…」
 先輩とは、接点さえほとんどなかった。
「でもさ、3つ上の先輩が、今は何で、あたし達と同じ、研修医1年目なわけ?」
「2年留年して、1年国試浪人したみたい」
 菜津も参戦してきた。
「その人、ヤバイらしいよ。部活を引退したのは、後輩から追い出されたからで、病棟実習で2年も留年したっていう噂だよ。アイちゃん、会うのやめといた方がいいよ」
 さすが、研修ガールズ。情報が早い。
 波留も、市民病院で研修している佐藤先輩について、大学同期から仕入れた情報を披露してくれた。

【佐藤海斗のエピソード】
(1)4月のオリエンテーションの際、接遇の講習で名刺交換を教わった後、病棟の看護師から指導医、飲み屋の店員にまで自分の名刺を渡し、ドン引きされた。
(2)ヨットやバンドの仲間とは話が合うが、医療者の中では浮いた存在。
(3)「最近、飲み会ばかりで太った」という同期の女性医師のつぶやきを聞き、間食する彼女に何度か注意した。最終的に彼女が上司に訴え、注意を受けた。
(4)アイと海斗が再会したあじさい祭りの頃、海斗は看護師さんと付き合っていたが、あっさりと振られた。(シーズン1 第7話

 波留のエピソードを聞き、精神科に興味がある菜津が腕組みして診断を下す。
「それって、アスペじゃない?」
 あたし達は顔を見合わせた。精神科指導医の松坂先生から講義を受けたばかりだ。

提供:長崎大学病院精神科神経科の松坂雄亮氏

 10人にひとりくらいは発達障害の可能性があり、アスペルガー症候群は医者にも結構いるらしい(参考文献1、2、3)。