年が明けた。
 研修医一年目の大晦日は、紅白もジャニーズカウントダウンも観る暇はなく、救急室と心カテ室と病棟を走り回り、カップ麺をすすっているうちに、いつの間にか夜が明けていた。そんな夜が3日続き、今年の正月は終わってしまった。
「アイ先生、頑張ったね! 久々、ガッツのある研修医を見たよ。うちに来ない?」
 循環器内科の医局長が言ってくれたのは素直に嬉しかったが、「No, thank you」とも心の中でつぶやいて、曖昧な笑みを返しておいた。
 循環器内科を後にした1月3日の早朝、研修医室脇の仮眠室で泥のような眠りに落ちた。

(イラスト:タテノカズヒロ)

 ドアをノックする音で目覚めた。亜希だった。
「ラインしても、全然返してくれないから、心配して来たよ」
「今、何時だっけ?」
「5時。夕方の」
 あたしは朦朧とした頭で何かを考えようとしたが、全然無理。「シャワーでも浴びてきなよ」という亜希の声に従った。
 さっぱりして戻ってくると、風呂敷の上に重箱が開けられていた。ふたり以外に誰もいない正月の研修医室。その隅の小さなテーブルに、彩り豊かなおせち料理が行儀よく待っていたのだ。
「え~っ! スゴイ!!」
「実家の残りもんだけどね」
「ありがとっ!」
 亜希はゆったりとしたワンピースの膝の上にコートをかけ、あたしはジャージ姿で頭にバスタオルを巻いたまま、座った。足元に電気ストーブを焚いて、おせちをつつきながら、遅いお正月を始めた。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 仰々しく言い合って笑った後、
「あ~、終わったあ!」とあたしが叫ぶと、
「ホントだよ!」と亜希も激しく同意。
 本日無事終了となった2カ月の循環器内科の研修。本当にきつかったが、やり遂げた充実感は半端ない。乗り越えられたのは、ガッツある亜希と一緒だったからだ。
「赤ちゃん、大丈夫なの? 結構、夜遅くまで働いてたけど」
 クリスマス前、彼女から妊娠を打ち明けられたのは衝撃だった。
「うん、大丈夫。ちゃんと食べられているし、夜はぐっすり寝てるし」
「よかった。あれからどうなったの? 家族には話した?」
「うん。年末年始は修羅場だったね」
 彼女はさばさばした様子で数の子をつまみ、口に入れた。
「数の子は子孫繁栄。ばーちゃんだけは喜んでくれたよ。ひ孫だ!って」
 亜希のばーちゃん、相田伸江さんは、あたし達が訪問したときに診断に手こずった乾癬の治療で、大学の皮膚科に通っている。
「当然、父さんは大反対。母さんはしょうがないね~って感じ」
「そりゃそうだよ。あたしだって、正直、反対だよ」
 亜希は、シングルマザーになることを宣言したのだ。
「あたしは、フリーになるのよ。男からフリーになって、子どもを育てながら麻酔科の専門医になる。将来は医局からもフリーになって、バリバリ稼ぐフリーランス麻酔科医になる。そして、実家の借金を全部返してやって、家族からもフリーになる」
 亜希によれば、これを「フリーダム宣言」と呼ぶらしい。

 フリーダム宣言に至るまで、紆余曲折は相当あったようだ。
 子どもの父親は幼馴染の消防士の彼、おくんちで一緒に龍踊に出ていた翔太君。しかし、お祭りが終わった10月初旬、真剣に話し合って、4年に及ぶ交際を解消したそうだ。
「だってさ、翔太とは5歳からの知り合いなんだよ。あいつがおしっこもらして、べそかいてた頃から。小学校の運動会で転んだり、中学校でカンニングしてバレたり、高校で初体験した彼女に浮気されたり、大学に全落ちして、浪人して入った消防学校で先輩にいじめられたり…。あたし、全部知ってるわけよ」
 あんなイケメンにも、そんな過去があるとは意外だ。良くも悪くも、翔太君の真の理解者は亜希なのだろう。
「それなら、子どもができたことを伝えて、仲直りすればいいじゃない」
「あたし達は、喧嘩別れじゃないし」
 あたしが重箱のレンコンをつまむと、亜希が言う。
「レンコンは、先を見通す」
「?」
「レンコンの穴からのぞいたら、未来が見えるのよ」
 あたしがつまんだレンコンの向こうから、亜希があたしをのぞく。
「ほら、見えるでしょ」
「確かに、見える」
「あたし達も、真剣に先を見通したのよ。翔太は将来、父親のように町内のリーダーになって、龍踊を継承していきたいのよ。それが彼の人生そのもの」
「亜希も一緒にやればいいじゃない。同じ町内だし」
「もちろん、それも考えたわよ。でもね、結局、翔太はお嫁さんが欲しかったのよ。あたしに家に入ってほしかったわけよ。代々続く家だからね。地元のちょっとした名士で、神社の氏子の総代も務めたことがあるらしいのよ。土地持ちでビルもあって、家賃収入もあるの。たぶん消防士も数年したら辞めてさ、父親の貸しビル業を継ぐのよ。彼らに必要なのは、愛想が良くて可愛いお嫁さんなのよ」
 亜希の話は止まらない。
「大事なのは、『いい嫁さんもらった』って言われること。子供産んで、家を守ってほしいわけよ。逆に、頭の良い小賢しい女医をもらって、外で働き続けるなんて困るわけ。当然だよね、向こうの家にしたら。そんな当たり前のことにやっと気づいた翔太と私だったわけよ。だから、別に喧嘩別れしたわけじゃないの。先を見通しただけ」
 亜希は一気にまくし立てて、水筒からお茶を注いだ。湯気が立ち上がるお茶をひと口含んで、遠くを見つめながら続けた。
「そもそも、付き合ったのが間違いだったような気もするのよ」
「どうして付き合いだしたの?」
「成り行きだね」